2010年10月2日土曜日

ホームページ

ホームページの更新をずっと怠けていたので、少しは更新しようかと思い立ちました。

と言っても、ブログを書いているので別にこれに加えて執筆しようとまでは思いません。適当に、気まぐれに、という感じです。

どちらかというと、このブログでやっていることのまとめページみたいな感じになるのではないでしょうか。ブログ全てではなく、シリーズ物をコピーして掲載、という感じでまとめていこうかと考えています。

「応接間」なのに埃かぶっているのは良くない、ということで、掃除することにしました。

2010年10月1日金曜日

プログラミングの"修行"

どうもここ2年ほどはプログラミングを教えることばかりに凝り固まっていたような気がします。自分自身が新しい言語を学ぶことはほとんどなく、新たなアルゴリズムの勉強も結局は教えることを主眼としていたように思います。大会の問題も含めて、多くのプログラミングの問題を解き、また作りましたが、自分の勉強として十分な進歩が見えるものだったかといえば疑問です。2年間で、ソースあたりに費やす時間は多少短くなりはしましたが・・・。

そこで、少し時間もありそうということで、前々からやると言っておきながらほとんど手をつけていなかったJAVAとC++を並行学習することにし、スケジュールを作成しました。まず、初歩的な書籍で基本を学んだ後、上級の、かなり詳しい書籍で徹底的に学習する、というコースです。ほぼ毎日結構な量を課しているにもかかわらず、年内に全部終わるのは無理そうだという、非常に厳しい展望です。

ですが、それぐらいのことをしないと、C以外の言語についてC並の水準で使うのは無理そう、というのもあります。同じ数値計算プログラムを打っても、FortranとCでは必要とする作成時間に大幅な差が出ます。それが私にとっての「修行」です。

Cは簡単な本を読んだ後、詳しい本を読んで、数年間、色々なところから問題を集めたりアルゴリズムを集めたりして、それを記述することによって伸ばしてきました。ですが、JAVAやC++は、これまでのプログラミング経験の下地がある。オブジェクト指向の基本も学習していますから、その下地は心許ないものではないでしょう。アルゴリズムは知っていますし、問題は集める必要もなく揃っています。ですから、ほとんど文法に集中して学習することができます。Fortranもそうでしたが、文法に集中した学習であればそれほど長時間はかかりません。それを考えた上で、「身につける」レベルまでJAVAとC++をやり込みたい、と思いました。

年内では無理かもしれませんが、年度が終わるまでにJAVAとC++は多くを調べずかけるレベルまで(=基本的なところは教えられるレベルまで)達したいと思います。それができたら、新年度になるでしょうが、C/C++,JAVA,Fortranあたりを使った、4言語での徹底演習で、マルチリンガルプログラマーとしての、言語力をあげると同時に、目標としているGo言語の学習にも注力していきたいと思っています。

2010年9月30日木曜日

自分を休みたい日

どことなく疲れがたまっているようなとき、それも体ではなく精神的に疲れているような日、自分自身であることをやめたいと思う日があります。自分ではない誰かでありたいと。

自分よりもまた別の面で優れている人がいるし、逆に自分が他より優れている面だってもちろんある。それは重々承知だけれども、今時分の優れている面よりも他の人の優れている面のほうが輝いて見えるならば、その人になりたいと思うこともあると思います。しかし、何よりも、自分という人間であることに疲れてしまって…それは自分を着飾るのに疲れるのではなく、自分自身の思考や自分自身の行動、自分自身の性格に疲れるということですが…自分以外の誰かになりたいと思う日があるのです。

寝ている間、私たちは意識がありません。そして起きたら、また同じ人間として活動をします。眠る前達哉んであれば、寝て起きてもやはり達哉んです。動いている自分は達哉んでしかないのであって、それは意識がなくなってまた戻ってきても達哉んの他にならないのです。

それが不思議で仕方が無い。寝ておきたら自分という人間が別の人になっていればいいのに、と思うことがあります。達哉んという人間が寝たら、次の日動かしているのは別の人である。そんなことがあればいいのに、と思います。意味が分かりにくいかもしれませんが、ゲームだったら分かりやすい。ゲームで、ある主人公を動かしている。それが、何らかの理由で、別の主人公を動かすことになる。それが日常において起こってもおかしくないのではないか、と言いたいのです。いや、そういうことが起こって欲しいと。運動嫌いの自分ばかりを動かすのではなく、たまには運動の出来る自分を動かしてみたい。万年筆好きの自分ばかりを動かすのではなく、たまには風呂に入ってまでメールに興じる自分を動かしてみたい。達哉んでない誰かを自分としたい…そう思う日があるのです。その時、勿論私は達哉んだった時の記憶なんてなくしてしまうのですが。

いろいろな意見があるのかもしれないけれど、自分でない誰かに、何かになってみたい。そんな思いが、疲れた日に、自分を休みたいという意識となって現れてきます。

2010年9月29日水曜日

タイピングのスピード

実際の数値として自分のタイピングの速度を知っているのは大抵プログラミング等に携わっている人のようですが、それでも速い人ほどその速度を数値として知っているようです。私も一応プログラミング愛好者の端くれ、自分の速度は時折測定しています。

誤打迄入れると面倒なのでそれは無視して、概ね
フルペース(長時間は無理):470type/min
航続可能ペース:400type/min
瞬間最大ペース:550type/min
という感じです。「タイプウェル」シリーズのソフトやe-typing、ハンゲームの「歌謡タイピング劇場」あたりで測定しています。

で、これだけのペースがあれば、通常困ることはありません。一般的な人では概ね200~300type/minあたりが航続可能~フルペースの範囲ですから、上記のペースは一般的な人から見れば1.5~2倍ぐらいの速さになるわけです。

タイピングソフトはフリーでも結構存在しているのですが、上記ペースになるとフリーで楽しめるソフトを探すのに苦労してきます。今使っているのは
・MP3打:元々はQueenの曲で練習していましたが難しすぎるので最近は日本の曲
・タイプウェルシリーズ
・e-typing
あたりです。

タイピングの速度向上はある一定水準を超えるとはっきり言って不要(むしろ腱鞘炎等を防ぐ意味でもやらない方がいい)と思うのですが、それでもある程度速く打てると楽しいもの。速いと自負されている方、↑のようなソフトで練習されてはどうでしょうか。初心者のかたも、e-typingとタイプウェルはおすすめですよ。

※ 航続可能ペースというのは手が痛くならず、長時間連続してプリント作成等をする際と同じぐらいのペースです。私自身はよそ見しながら打てる程度のペース、としています。

2010年9月28日火曜日

万年筆布教論12 「あとがき」

--以下本文--
本文の意図したところは、ロボット化の進む現代において、それを止める一つのツールとしての「万年筆」をよく知る者が、それをどのように広めていくかを示すことにあった。広める手法は唯一無二なものではなく、これ以外にも多数あるだろうが、一つの例示として何らかの道を示すことができたならば本文は及第というところであろう。宣教師として活動している筆者の経験をもとにした論を記すことは、ある種普段学生をみている教師が「学生のつまづきやすいところ」を丁寧に解説することに似ている。これは効果のある場合が多いと考えられるが、逆に教師の自己満足に終始してしまうこともある。本文の内容も同様に、効果のある場合も少なからずあろうが、必ずしもこれがバイブルとして通用するわけではない。そういう意味で、事例を紹介することを主眼とさせていただいた。これにより、少しでも万年筆を使う人が増えれば幸いである。

本文を書こうと思い立ったのは、自分が多数の布教を行っているということと、fuente49号に寄稿した拙文によるものである。その文中で、私は「万年筆は人間のロボット化に対抗するための武器である」と主張した。人間のロボット化というのは、将来的にAIが発展し、ロボットが人間の水準まで達するという意味では当然なく、現在の人間が心というものを失いつつあり、義理や人情といったものを失い、友情を失い、ひいては人間のもっとも強い力である愛情をも失いかねないということである。効率優先の中で、人間を単なるモノとして扱っていないか。私に手紙をくれる多くの知り合いはロボットではない。血の通った人間である。私は、その状況を少しでも長く維持するために、万年筆布教論を記したのである。(なお、その主張をした内容については、近日、ホームページ「達哉んの応接間」に掲載予定である)。

この論を記しているうちに一つ思ったのは、万年筆のハードルは高い、ということである。それは、一本目を買うハードルが高い、というところだけではない。そのハードルを取り除く方法は十全に記したつもりであるが、それだけでなく、情報を集めるのが難しい。雑多な情報は整理しづらく、結果として万年筆についての正確な情報を得るのが難しくなっている。私は、その点の改善を訴えかけていきたいと思う。布教論を一つの課題の完了とするならば、次の私の課題は(インクフロー定数の決定問題を除けば)そういった情報の収集整理に関する論である。活動と言い換えたほうが正確かもしれないが、fuenteやWagnerにも協力してもらい、一つの万年筆データベースを作成したい。万年筆データベースサイトが然るべき形式で仕上がれば、万年筆コミュニティの発展と万年筆会全体の発展に大きく寄与するだろうと確信している。特に「万年筆インプレ広場」はその先駆けであり、それをも内包したより良いデータベースサイトコミュニティを構築したい。私の意見にしか過ぎないが、これを読んでくださるWAGNER会員、fuente会員、その他万年筆関連の人々に協力をお願いしたい。無論これらは、WAGNERやfuenteとは(協力はするが)別の団体活動でありたいと思っている。

最後になったが、本文にお付き合いいただいたことを深く感謝する。
--以上本文--

2010年9月27日月曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その7

41~50位です。

時は流れて:44位。「ホームにて」「タクシードライバー」と並んで父に多く聞かされた曲です。聞いている長さから言えば間違いなく私の人生top3に入る中島みゆきさんの曲です。失恋歌、というのが一般的なのでしょうが、そういう観点からの話はさておき、「時は流れて町は変わった、知ってる顔も少なくなった」に寂しさを感じるのは私だけなんでしょうか。私だって時が流れて変わっていく、かわらぬものなどない…そんな中で、この歌では逢えないままに終わりますが、私は、逢えば何かしら時の流れに変わらぬものが見つかったのではないかと思います。時の流れが逢えないように変えていったとしても、何かしらの方法で悪あがきで逢えれば、もしかすると変わらぬ何かがあったのではないかと。時が流れて、私は変わり、友人も変わりました。私の町にも知っている顔は少なくなりました。でも、そんな中で、ふと会う友人は、たとえ変わっていても、その時間の良さは変わらないのです。

泣きたい夜に:46位。本当に「泣きたい夜に」聞くことの多い曲です。「一人で泣くとなんだか自分だけいけなく見えすぎる」のもそのとおりで、泣きたい夜をよく表しています。…それがもっともっと辛い時、泣きたい夜は死にたい夜に変わり、そんな時、この曲の全ての「泣きたい夜」を「死にたい夜」に変えると、逆になんとなく気持ちが落ち着いてきます。泣きたい夜にしろ、死にたい夜にしろ、誰か他の人に助けてもらうことが大事なんだと言っているような歌詞に思えます。泣きたい夜、「あたしのそばにおいで」と言ってくれる人がいることは大切で、泣きたい夜に、そばで私の話を聞いてくれる友人が、今の通信技術の発達のおかげですぐに話せることで、私も随分救われています。泣きたい夜は誰にでもあって、つらいときに一人でいなけりゃならないなんてことはない。私を気に入ってくれている後輩にいつも言っていることですが「辛けりゃ頼っておいで」と。誰にだって泣きたい夜があって、そんな時、誰か一人いれば、随分と楽になる…。中島みゆきさんが歌っているとおりでもありますし、自分の経験でもそうです。「帰省」ほどではありませんが、自分の心情をよく表現してくれる曲です。

あした天気になれ:50位。矛盾だらけの行動に自分自身の矛盾だらけの心が映し出されるように感じます。ある一方で自分の信念を貫こうと奮闘しながら、その一方で結果として当然得られるであろう好き嫌いの分かれに泣けてきて…。矛盾があるから人間なのかもしれません。雨が好きなのに「あした天気になれ」という矛盾は、あまりにもあからさまな矛盾で、周りから見ればおかしく見えるのかもしれませんが、天気になって欲しいのに雨が好き、飲み会は嫌いなのに飲み会に参加したい、そんな変な矛盾を感じることが誰にだってあるのではないかと思うのです。そんな時に聞いて、矛盾があるのは自然なことだと感じて、その矛盾を受け止める度量をつけねばと思うのです。

2010年9月26日日曜日

万年筆布教論11 「アフターサポート」

長かった万年筆布教論も、この「アフターサポート」と「あとがき」を残すのみとなりました。

--以下本文--
前項において万年筆団体の利用方法を述べ、またここまでの内容でペンクリやインク工房に関する話も断片的に述べてきた。これらを含め、ここではアフターサポートで何をすべきかの総論を記す。

アフターサポートと聞いたとき、布教者はどの程度のことができるか、また、すべきことはどの程度か。まず、布教者はメーカーでも販売者でもないことから、ペン先の交換等はできないし、修理保証もできないということは妥当であろう。一部の調整技術に長けた人は別として、一般にそういった修理・調整技術がある状況は珍しい。

その場合、できることは限られてくる。情報の提供・取次がそのほぼ全てと言って良い。だが、そこにこそアフターサポートの意味がある。アフターサポートとして布教者に求められる最重要たる部分は、情報なのである。技術面での提供はメーカーや一部の販売店、あるいは万年筆会認定調整師に及ばない。布教者がそれらに勝るのは購入者からの連絡の取りやすさの点である。そこで、その連絡の取りやすさを生かした情報の提供こそがポイントとなる。得意なところを活かせ、ということである。

概ね、次の情報は誰に対しても必要である。
・何らかの問題が生じた時の対処方法
・消耗品の購入先(インクやコンバーター)
・洗浄方法
・2本目以降の勧め
・贈答等による他の万年筆購入の勧め
一方で、これ以外の情報は臨機応変に、必要に応じて小出しに与えていけばよい。そもそも万年筆の世界はすぐさま語れるものではないのだから、語れる部分から語っていけばよいのである。

上記以外に、関連商品の紹介(紙製品やシーリングワックス等)も有用であるが、これは布教者によって知識量に大きく差があり、また好みの問題もあろうからこれは出来る範囲で良い。万年筆の利用に関する情報は一通り与えられる、それが布教者のアフターサポートである。

ムダに多いアフターサポートではなく、出来る範囲でのアフターサポート。これがあるだけでも、万年筆の世界に孤立せずに済む意味で違いがある。将来的に万年筆の世界で一匹狼になるにしろ付き合うにしろ、まず基本的な知識は雑多な中から収集していくのではなく、体系的に与えてもらえたほうがよほどハードルは低くなるためである。

最後に、一つ重要な点として、アフターサポートは1本目までを旨とすべし、ということを述べておく。2本目以降については布教者の好みを反映させることなく、個人的な好みで選んでもらうほうがずっといい。そういう観点から言えば、1本目こそ口出しするものの、それ以降は最低限の情報だけを出して、自主的に行動してもらえばいいのである。そして同時に、その自主的な行動までいった人は、もうすでに布教対象としてではなく、万年筆仲間として扱えばよいのである。
--以上本文--

一通り「布教者として何をすればいいか」は述べたつもりです。