2010年10月9日土曜日

紅茶を飲もう その1

紅茶を飲むのは私にとって日常的なことですが、しかしながら、その中には色々なことがあって、紅茶を飲むと一口にいってもそれだけでエッセーを書けそうな気がします。そこで、それを少し書いてみよう、と思います。

--違いがわからない--
紅茶を飲んでいて、多くの紅茶を擁していますが、それらを飲んでいただいても違いがわからない、とおっしゃる人がいます。勿論、比較しながら飲むような会は別として、単独で飲んでいただいているときには違いがどうのこうのと言わなくても美味しいかどうか、自分が好きかどうかさえわかれば十分なのではないかと私は思っております。
先日、「違いがわからない」とおっしゃる方がいらしたので、ちょうど淹れていたバングラデシュに対し、明らかなまでに違う、2010ダージリンファーストフラッシュ,キャッスルトン農園のものを淹れて、飲み比べていただきました。そうすると、その方は「違いはわかるが、何が上質で何が上質でないのかわからない」とおっしゃいました。
上質かどうかというのは店側の言い分であると私は考えています。勿論、飲むときにキチンと葉が開いてくれて、いただいて美味しいと感じるものが良いのではありますが、それ以上の段階で上質どうのこうのというとき、これはもう店や農園といった販売側の目線になってきます。販売側は然るべき茶葉を選び、それが安全でおいしいものとして我々消費者に届くようにしてくれています。その時、我々消費者に対しての売り文句として、良質、上質というものがあるのであって、美味しいかどうかというのは別問題なのだと思います。

私は、紅茶を多く飲んでおりますが、良質・上質という言葉の実態を説明するには至りません。どれが上質な葉なのか、と問われたときに、比較的良いものを選ぶ、ということは当然できますが、上質とはどの水準で上質なのかと問われても、私は説明することができません。
ただ、上質かどうかということよりも、私はクオリティーシーズンか否かを気にします。クオリティーシーズン、聞いた感じは上質かどうかというように聞こえますが、実際は”旬”です。紅茶にも旬があり、それは産地などによって変わりますから、其の旬の紅茶をいただくことが私にとっての「上質な」紅茶です。

上質かどうかというのは観点によって変わりますが、私の考えとしては旬かどうかである、というのが一般的な方々への説明として妥当なものなのではないだろうか、と思う次第です。

2010年10月8日金曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その8

51位~60位。このあたり、聞いたことのある曲が少なくなってまいりました。

愛から遠く離れて:51位。「愛から遥か遠く離れて生きるとき」、それはある意味では愛情を感じにくいような集団にいるようなときではないかと思います。愛情があっても、それをつかめるように感じないとき、我々は愛から遠く離れているのだと思います。そんな時に、「船が出るかもしれないから」、その時を待ち続けて、時間がわかったら余計にしんどく感じるから、時計を捨てようと、そういう事なのでしょうか。しんどい時、どうしていようか…そんな問の一つの答えのように感じます。

カーニヴァルだったね:56位。「注がれる酒に毒でもあれば...」、私自身幾度か、「飲めぬ酒を無理に多くのみ絶命しよう」と考えたことがあるから、非常に強く響いたフレーズです。なぜここにいるのか、なぜ生きていなければならないのかと辛い時があったことで、この歌詞の辛さが感じられます。カーニヴァルだった、そんな以前に比べて、今は苦しくてしんどくて…。過去をカーニヴァルであるかのように美しく感じるのは私だけではないのでしょうか。

MEGAMI:58位。「見返り無用の笑みをあげよう」というのが残ります。見返り無用の笑み、というのは人間が無限に持っている愛情の本来の与え方を示しているような、そんな気のする歌です。だから「女神」なのだと。人間が本来持っている愛情を、人間の性にとらわれることなく無償で分け与えようと言う、だからMEGAMIなのだと思います。愛情、それはどうあるべきかを歌っているように思います。

2010年10月7日木曜日

本を丸一冊机から出せますか?

まず、下側の写真を見てみてください。この写真、撮影したものか合成写真かどちらでしょう?
後ろのゴチャゴチャは置いといてもらいまして(^^;

ミスター味っ子の本を積み重ねています。そしてこれ、一番上の本は赤い線で示したとおり、机の端からまる一冊分出ています。
これ、何かのパズルの本に出ていた問題で、さすがにそこから画像を取ってくるのは今ひとつなので自分で画像を作ったものです。
で、問題となっているのはこの画像の作り方。写真でとったのか、合成画像なのか?ということです。勿論、真ん中の赤い線は別として。

これ、物理的に可能で、実際に撮影した写真です。上から順に、漸化式的に重心の位置を計算していきます。本はすべて一様とすればよいのです。

一番上の重心の位置を0として、その重心から上2冊の重心を定めます。定めた上2冊の重心から、上3冊の重心を定め、以下それを繰り返していきます。どの重心もその下の本もしくは机の上に乗るように設計すれば可能です。

原理的には、2冊分、3冊分…出すことも可能なはず。それを計算してみようかなと思います。剛体力学ですが、面白そうな問題です。勿論手計算は面倒ですから、プログラムですが…。

2010年10月6日水曜日

ハリーポッターの名言4:「なら僕は人間でいるのは嫌だ」

ものすごく久しぶりのこのシリーズ。なんと1ヶ月以上空いています。予定稿の時期に出しておけばよかったと反省。

さて、今回の名言は(漸く)ハリーの言葉です。「なら――僕は――人間で――いるのは――嫌だ!」と、ダッシュで区切られながら書かれる、不死鳥の騎士団下巻625ページの一つの見せ場だと思える場面です。愛するがゆえに苦しむ、その苦しみがあまりにも強すぎて、もうそんな苦痛を感じる人間であることが嫌である、というハリーの言葉です。

私は幸いにして、ハリーよりも親族にはずっと恵まれています。父母だけでなく、祖父母も健全ですし、弟までいます。そんな状況でハリーの事がわかるというのはおこがましいと思うのですが、それでもこの言葉はものすごく心に残っています。

愛するということは別に家族だけに出来る行為ではありません。勿論、家族には大抵最大限の愛情を注ぐことでしょうし、その愛情が途切れることもまず無いでしょう。源氏物語などでは「見捨つ」を「死ぬ」という意味で使いますが、これは子供のことを親が見捨てるのは死ぬ時以外ないから、という説明があるほどです。ハリーの世界ではそれ以上であり、親の愛情は、炎のゴブレットや死の秘宝でも見られます。

それでも、その愛ある縁を失うことは、それが永遠のものと思われるときにはひどく辛いものです。ハリーの場合はそんな縁がもともと少ない。そうあれば、もう人間であるのは嫌だと、愛を失うその辛さを味わうことはもういやだというのもうなずけます。

永遠の生を描く作品の多くは、大抵、愛する者が皆先立ちゆくためにその生を後悔してしまいます。それを見ている限り、私にとって永遠の生は全くもってほしくないものです。その一方で、私が死ぬその時にも、幸いであればそれを悲しむ、辛く思う人がいることでしょう。世界中の全ての人に嫌われれば話は変わるのでしょうが、それだと生きているのが辛いものです。死ぬこと、その一番の怖さは、私にとって、私を愛してくれるありがたい人々に辛さを感じさせてしまうことです。

ハリーの言葉は、勿論シリウスの死にあたっての言葉ですが、同時に、死とそれに伴う愛の喪失を描いた含蓄ある言葉だと思います。「なら僕は人間でいるのは嫌だ」、私という人間が失われて、それを悲しむ人がいるのであれば、いっそ非存在がいいと、そういう意味では、私も人間であるのはいやです。

2010年10月5日火曜日

エーデルシュタインインク発売の情報(噂段階)

ペリカンのエーデルシュタインインクの発売情報が少々入りました。

その「筋」で流れている噂の段階を出ていないのですが、一応輸入筆記具協会関連者によれば今年末か来年始めではないか、とのことです。

20USドルらしいですが、日本なら2000円ぐらいの販売価格でしょうか。折角なので私も購入しようと思っていますが、最近は青と黒とセピアしか使っていない私、何を買うのやら・・・

2010年10月4日月曜日

医者で思い出した祖母

かなり久しぶりに新鮮な(予定稿でない)内容です。

先週の木曜日、喉が痛くて扁桃腺が真っ赤に腫れ上がっていたので風邪薬を飲んだりして過ごしていました。土曜日まではそれで問題もなかったのですが、昨日。朝起きて、布団の中にいるのに寒気がして震えているのです。あまりに寒いので、もう一枚布団をつかんで二枚にして漸く震えはおさまりましたが、熱を測ってみると39度ごえ。昼には37度台まで下がりましたが、それでもさすがに医者に行ったところ、風邪と、気管支炎だろう、という診断でした。

気管支炎、と聞いて思い出したのは10年前のことです。10年前、学校を休み、いつもの耳鼻咽喉科に祖母と共に行った時の診断が気管支炎でした。その後、タクシーで5分ほどの国立病院に行ったことを思い出したのです。

祖母は厳しくしかることもありましたが、孫の私にはやはり優しく、祖母から学ぶことも多くありました。今でも読書が好きですが、それはいつも本を読んでいた祖母の影響が強いからだと思っています。

気管支炎が祖母のことを思い出させてくれて、既に他界してはいるものの、ふと、横にぬくもりを感じたような気がしました。「ゆっくり休みなさい」と。

2010年10月3日日曜日

結局手紙は届いたのか

実は8月の中旬からここまで、ほとんどずっと予定稿です。テストやらなんやらで、鮮度ある投稿というのは殆どありません。とれたてピチピチの、鮮度の良い投稿は、多分明日から再開できると思います。予定高というのは便利で、思い立ったときにどんどん書く事ができますから、ついつい書いてしまうのですが、それだけでいいというものではありませんよね。

それではその間に何をしていたのか、というと、ほとんどは勉学に時間を費やしておりました。テストの真っ最中というのもありますし、何より、テストの不安は眠る時間を減らしてくれますから、勉強するかきちんと眠るかが重要な課題となったのです。ただ、そんなテストの時期に入る前に、帰省の時の手紙を書いて送りました。

ここ2年、「一日一通の手紙を」と思っています。これはあくまで平均すればの話ですが、平均して一日一通は手紙を書こうと。実際にカウントしたわけではありませんが、折々に出す手紙は100通以上になりますから、きっと達成してるのでは?という次第です。しかしながら、実際にそれを数えたわけでもないですので、本当に達成しているかどうかわかりませんでした。ところが、この9月から、自分がいつ誰にどんな手紙を出したか忘れてしまって、短い期間に同じ人には2回出すのに他の人は無視しているという状況が起こっているのを防ごうと考えたことから、手紙ノートをつけることとしました。これによると、私は 9月に22通の手紙を出しています。年賀状が100通強加わることを考えると、私は9月以降(平均として)一日一通を無事に達成できることとなります。お、なかなかじゃないかと思うと同時に、真の「一日一通」を来年は実践したいと今から考えています。

手紙を毎日出すことはブログを毎日書く事と似ています。手紙をある折々に一気に出すことは、ブログを予定稿で書いておくことに似ています。ある意味で私は、手紙も「予定稿」でしのいでいるのです。厳しいかもしれないけど、「予定稿」なしでブログも手紙も出来れば…というのが理想です。

そんな手紙ですが、最近は二つの意味で、届いているかどうか気にするようになりました。一つは、物理的に届いているかどうかということ。出したはずの手紙が残念ながら届いていなかった、というのが暑中見舞いの時に2通ほどありました。私のミスなのかもしれませんが、無事届いていなかったのは残念でした。もうひとつは心理的な意味で、私が手紙を書いて出しているというその思いが相手に届いているか、ということ。私の好きな中島みゆきの歌の一つに「I love you,答えてくれ」というのがありますが、その心境です。「愛さずにいられない馬鹿もいる、気にしないで受取ればいいんだよ、愛さずにいられない馬鹿もいる、受け取ったと答えて欲しいだけさ」…その心境でしょうか。愛さずに、手紙を送らずにいられないバカもいる、それが私です。そんな私の手紙、躊躇せずに受け取ってもらえればいいですし、それに対して、「受け取ったぜ、元気だぜ」と答えて欲しいだけなのです。手紙を出して、ただそれが受け取ってもらえるという幸せがあります。勿論、その心のこもった返事は受け取ったというだけの返事よりも印象深いですが、しかしながら、受け取ったと答えてもらうだけでも、随分うれしいものです。

2つの意味で、私の帰省の手紙は届いているのだろうか、と考えると、届いていないのがほとんどのようです。物理的には届いているかもしれませんが、心理的には届いていない。あるいは、そもそも物理的に届いていない。ごく一部の手紙を除いては、受け取ったの返事もないのですから、私の気持ちが伝わっていないのだろうと寂しく思います。

2つの意味で、自分の手紙は本当に届いているのか…。折節に出す手紙は別として、それ以外の手紙は、受け取ったと答えてすらもらえないところを見ると、まだまだ私には「届く手紙」の技術が不足しているようです。それは、手紙の書き方文例集に載っているようなものではなく、自分らしく、相手が読んで私のことを思い出してくれて、「受け取ったよ、ありがとう」のメールをくれるような文章を創意工夫せねばならないということです。

結局手紙は届いたのか…正直に言えば、届いていないのでしょう。私が手紙を送った多くの人にとって、私の手紙は心に届くものではなく、ダイレクトメールに毛の生えた程度のものでしかないのでしょう。肉筆は心に届くといいますが、「I love you,答えてくれ!」という悲痛な叫びの中で、単なる肉筆は心には届いていないのだと思います。「受け取った」と答えてくれるだけの手紙を書けるようになるのは、いったいいつのことなのでしょうか。それとも、受け取ったという返事すら出さないような「人間のロボット化」が、もう個人の努力では克服できないほどに進んでしまっている、そんな手紙相手ばかりになってしまったということなのでしょうか。