2010年12月18日土曜日

吐く息が白いということ

なぜこんなことに昨日まで気づかなかったのだろうかと訝しいのですが。


道を歩いていて、すでに吐く息が白い季節になっています。小さい頃は、毎朝の投稿の時に、白い息を面白く思ったものでした。今、その原理が理解できていて、面白いものにはかわりないはずなのに、それに気づくことすらできない、余裕ない自分がいることを情けなく思っています。

吐く息が白いということは、つまらないことなのかもしれません。でも、そんなつまらないことであっても、それに気づくことができるか、気付けないかではずいぶんと違う。今年は15日までにすべての年賀状をかきあげられませんでしたが、それは吐く息が白いことすら気付けない余裕の無さ故ではないかと思います。

余裕のない生活は、自分の心も疲れ果てさせます。精神的に余裕のある生活を送ることが出来れば、それが一番なのでしょうが、なかなかうまくいかないものです。

幸い、この土日は少し休息できるので、一息ついて、新しくやってきたパソコンの整備をしながら、ひとまず年賀状を書き上げようと考えています。

2010年12月16日木曜日

新パソコンを入手して

以前のaltはきかない、左カーソルキーはきかないetcの、もうそろそろ寿命かなというようなパソコンから、新しいデスクトップに乗り換えました。とはいえ、その乗り換え作業はまだまだ残っているのですが・・・。

ひとまず、新しいパソコンに変えてみて思ったのはものすごく速いということ。前のPCがCeleronM 1.60GHzで2GBメモリだったのに対し、新しいPCはPhenom II X6 2.80GHzに8GBメモリ。どちらも4GB弱のReadyboostをかけていますが、とにかく新しいパソコンは(以前のノートが2つ前に使っていたデスクトップよりもずいぶん遅くなってしまった反動もあってか)ひさしぶりに自分の仕事をストレスなくこなしてくれるパソコンです。

キーボードもFILCOのMajestouchを買いましたので、非常に打鍵が楽しく、また速いのですが、残念ながらこのキーボードを使っていると、皆様に「打鍵音がうるさい」といわれてしまいます。それゆえ、時間帯etcによっては使えない場合があるということで、無料でついてきたメンブレン式のキーボードもつないで、うるさくてもいいときはFILCO、静かに打つべきときはメンブレン式、と使い分けることにしました。キーボードによって打鍵速度が変わるというのを地で行っています。

プログラミングを始めて、もうそろそろ8年になるでしょうか。PCにしても、これで7台目です。5台目も満足いく性能でしたが、やはり年数によって変わってくるわけで、7台目はやはり5台目を上回っていました。正直に吐露するならば、これを100%稼動させるには相当に学ばねばならないと思っています。せっかくなので、これを用いて「アルゴリズム・イントロダクション」の第3巻にのっている並列アルゴリズムなどを、数種のスレッドプログラミングによって実行してみたいと思います。実際に、コアがひとつの場合に比べておおむね6倍速となるのかが楽しみです。

とはいえ、ひとまずは学校の課題。データ解析の課題が出ているのですが、折角なので64bit符号なし整数を6分割し、それぞれについてAKS素数判定法を用いた時間と他の方法による時間の比較でも行ってみようかと考えています。素数判定の計算時間について、AKS素数判定法がどの程度有効なのか(あるいは有効でないのか)を統計学的に理解することができれば、と考えています。

2010年12月15日水曜日

年賀状受付開始に思う

今日12/15といえば、年賀状の受付開始日です。ということからわかるとおり、今回のブログは年賀状が話題です。

私は基本的に、既製のイラストが入った年賀状に、多めの文章を手書きし、宛名も手書きで書いて出す、というスタイルです。出す人数の多さを考えれば、手書きというのはかなり勇気のいる選択ですが、それでもなんとかかんとか出しています。

で、今回書きたいのは、もらった年賀状をどう扱うか、についてです。
と言っても、年賀状をもらったらそれについて返すかどうか、とか、捨てるかどうか、といったような、人の挨拶をないがしろにするような事について論ずるわけではありません。年賀状は挨拶であり、挨拶されれば返すのは人として当然の礼儀だと思います。それがあまり行われていない、ということについては本ブログでも幾度も書いたことですが、これについての一元論的な話ではなく、また別の話で、年賀状をどう見るか、というのが今回の話です。

プラチナが年賀状を書くコンクールを行っていて、それについては肯定的に見ています。その横でやっている、一部製品に特典がつくキャンペーンのほうがより魅力的だと思います。このことについては、以前このブログで書きました。ですが、これは個人レベルで行うべきではない、と思うのです。

小学生の頃、確か3年生の時だったか「年賀状コンクール」というのがありました。年賀状を書きなさい、これを年始に掲示し、相互評価して得点の高い人に賞状を与えます、というものでした。これについては、「誰に対するものでもない年賀状」であり「デザイン性の高い年賀状」を書けば、それで良いのだと思います。しかし、この年賀状コンクールの欠点は、当時は何も思わなかったのですが、今考えてみれば見当たる欠点は、「年賀状は学校の先生に送ってもいいし、学校に持ってきても良い」となっていたことでした。これは「学校の先生に送る年賀状を評価する」ということです。ある特定の人に送る、特定の人に当てた年賀状を第三者が関与してそれを評価する、ということです。ある特定の個人に当てた手紙を、関係の無い人が評価する、というのは、まったくもって気分のいいものではありません。その善し悪しにかかわらず、です。

そして同時に、「来た」年賀状について、自分自身が評価を下すのもまた不要なことであると思います。この人は悪筆だ、この人はデザインが上手い…などと、そういった「評価」はあるのかもしれませんが、何よりも「挨拶をしてきた」ということが肝心なのではないかと思います。心がこもっていれば、別に悪筆だろうが、どこかで見たことのあるデザインだろうが、関係ありません。そこを勘違いして、年賀状を「評価」する人がいますが、実に無意味なことであると思います。

私は御世辞にも達筆とは言えません。文章も稚拙なものですし、イラストは既製の印刷されたものです。それでも、相手の喜ぶ顔を考えて、一生懸命に年賀状を書いています。その年賀状が「評価」されるような事は想定していません。心のこもった挨拶をするということが大切なのであって、デザインが美しいだの、字が美しいだのというのは年賀状に必ずしも必要なものではありません(美しいに越したことはないですが・・・)。

勘違いした「評価」をするのは無意味です。年賀状の文章がうまいとか、字がうまいだとか言うのは公言する必要は一切ありません。そんな「評価」よりも、自分が年賀状を出していない人から来たときに、その人の心遣いに感謝して挨拶を返すということ、それから、年賀状を返してこない人をどうしたのかと心配することのほうが、年賀状の意義からすれば、より大切な事ではないでしょうか。

2010年12月14日火曜日

「プログラミング、何をどう教えているか」

先日「忙しくとも休む暇を」と書いている割に、最近はずっと予定稿ですが。

タイトルは日本情報処理学会の雑誌「情報処理」から。プログラミング教育について論じた連載です。

その連載ではプログラミングの教育について色々なことを述べているのですが、少なくとも私が今まで読んだ中には、ツールとしてのプログラミングを教えているという感覚でした。勿論多くの人にとってプログラミングはツールであり、私もプログラミングをツールとして用いることがありますが、しかし、数学同様に、プログラミングはそれ自体にまた面白い世界を内包しています。

プログラミングは数学以上に「ツール」として見られていることが多いように思います。それ故、説明はかなり粗い。極論すれば、道具には道具なりの扱い方がある、という「使えればいい」程度の教え方のようです。勿論、それをどう使えるようにするか、ということがこの連載ではかかれているのですが、どうにも、プログラミングはツールである、ということから離れていないような気がしてなりません。

競技プログラミングのような世界がある。プログラムそのものを趣味としている人がいる。私もそんな一人で、自分の執筆したテキストには「プログラミングとは一般にはコンピュータに処理させたいことを記す、ということであるが、これではあまりにも味気ない。…(中略)…コンピュータを俳優とし、プログラマは脚本家と監督を兼ねている。こうしてつくられたドラマをプログラムとよんでいる。」と書きました。けれども、そう感じる人はあまり多くないのか、あるいはそこまで深いことを感じ取れるレベルまで教えることはできないのか、道具という感を払拭出来ていなくて悲しい限りです。

友人たちがよくプログラミングの質問に来ます。その友人たちの多くは、プログラミングを、訳の分からない、厄介な、しかし使いこなせないといけない道具のように扱います。まるで、プログラムをいやいややるのが義務感のような、苦痛を顔に表します。それを見ていて、心が痛みます。

プログラミングは、コンピュータを相手につくるドラマです。そんなクリエイティブな行為を、多くの人が「ただのツール」として捉えていて、あるいはそう教えていて、嫌な顔をされてしまう。私はそれがいやでたまりません。

この連載はまだ始まったばかり。じっくりと読んで、ツールとしてプログラムを教えるだけでなく、プログラミングそのもののクリエイティブな楽しさをこのように教えている、という記事が見つかることを期待しています。

2010年12月13日月曜日

21歳になって

今日、21歳となりました。

21歳というのは実に中途半端に思います。
大抵の人が20歳を節目にしているから、21歳は余計に節目として見えにくいのかもしれません。

21歳。私にとって、この21歳と言う年齢はどうなるんでしょうか。
いや、どういう年にしたいのでしょうか。

自分らしくありたい。
人格者でありたい。
絆を大切にして、本を、文具を、茶を、プログラミングを、そしてなにより後輩を好む…そんな21歳にしたいと思っています。

21歳。何が待ち受けているのか、不安ではありますが、そのなかで成長していくことが出来ればとおもいます。

2010年12月12日日曜日

量が少ないから無視する、ということの怖さ

物理では微小量を無視することがあります。例えば、境界層気象学では平均の状態方程式の導出に対して乱流成分が小さいから無視します。このように「小さいから無視をする」ということですが、これはそう簡単に適用してはならない、という風に思います。勿論これは、自然科学的な問題を倫理的問題に適用してはならない、ということに包括されるのですが・・・。

物理量に対して、その誤差が0.1%程度であれば無視できるという場合があります。その一方で、ローレンツアトラクタのように、小さな誤差であっても無視してしまうと全く違う解になるようなものがあります。前者のように扱っていい問題と、後者のように扱うべき問題には明確な違いがありますが、そこで絶対に後者のように扱うべきなのが、人間に関する問題です。

我々一人ひとりは、地球上に全人口に対して考えれば、0.000001%にもなりません。であれば、それを無視しても良いのか、と。仮にその増減を無視しても良いと仮定すると、とんでもない結論が導かれます。「1人ぐらいの増減は無視しても良い」ということから、人を殺しても問題がない、という極論に至ります。

あくまでも極論です。しかしながら、「そんなモノはただ一人だから」と無視するだけの、二律背反的な多数決には問題が出てくる、という風に思います。多数決の原理などといいますが、要は少数派の意見が取られないということ、そしてその少数派の意見は「無視」されるのです。

少数派意見の怖いところは、人間の認識上、少数とみなされない人数であっても、多数決の原理の前では同じということです。過半数決定、というのであれば、99%が賛成で残り1%が反対であろうが、51%賛成で残り49%反対であろうが、結論は同じなのです。

量が少ないから無視をする。これは物理過程などで、理論上必要な場合には行わなければ議論が進展しません。しかし、そこには十分な考察が必要である、というのが人口の例から言えます。

その怖さを忘れて「無視して・・・」とあっさり書いているうちに、人間を無視するということを覚えてしまうのは怖いことです。そのことを理解した上で「無視する」ことを勉強しなければならないと思いますし、いつ、どこで無視して良いのか、そのことを真剣に考えるべきだと思います。

少数といえば、昔、1/100は皆たいしたことがないと感じるが、10000/1000000は結構な人数である、と感じる、という話を聞いたことがあります。どちらも約分すれば同じ値なのですが、この「人数の差」は、1人であれば無視してよく、同じ割合でも母体が大きくなれば無視してはならない、ということを意味しているように思います。単に母体の大きさだけで無視すべきかどうかを、人間が知らず知らずのうちに持っている、その恐ろしさを痛感しました。

村八分は非常に怖い刑だったといいます。その根底は「無視」にあります。我々人間は、無視するということの怖さを考えて、それを常に意識して、その上で無視せねばならないと感じました。