2010年12月11日土曜日

「死ね」という言葉に

近頃、付近で「死ね」という言葉を言っている人を少なからず見かけます。当人たちは冗談で言っているのでしょうが、本当にその言葉の重さを分かっていっているのだろうか、と不安に感じることがあります。

死ぬほど〇〇、〇〇で死ぬ…といった比喩表現は、死を「最も悪い物」として扱っている暗喩とすれば納得できます。その暗喩の可否はともあれ、ひとまず暗喩として捉えれば、その当人が命を失うというわけではないことがわかります。まぁ「死ぬほど難しい」については、異論があるのですが・・・(死ぬことは、自分の心の整理さえつけばそう難しいことではないわけで。ハリーポッターと賢者の石のニコラスフラメルの態度など見てみればわかりますし、同シリーズでは、死を「難しい物」とも「恐ろしいもの」とも扱っていません。)

話が少しそれてしまいましたが、「死ね」ただそれだけの冗談には、他の解釈の余地がありません。会話も横から聞こえてきますが、全く脈絡もない「死ね」ですから、解釈のかえようがないのです。私が中学生の時にお世話になった音楽の先生は「死ねと言った相手がそれに従って死んだらどうするのだ!お前は責任を取れるのか!」と烈火の如く叱りつけていましたが、その叱っていた場面は間違い無く今の自分に強い影響を与えています。そして、その場面を覚えているからこそ、冗談であっても「死ね」と普通に言ってしまう風潮を悲しく思います。

別に「死ね」といったから相手が死ぬ必要はありませんし、責任を取る必要はない、と考えるかもしれません。でも、「死ね」ということがどれだけの意味を持つのか、そして、その相手がまだ冗談とうけとれるだけの余裕がある時でなければ、その言葉が一体何を起こすのか、想像してみて欲しいと思います。

私自身が、人に「死ね」と言うとすれば、それは自制がきかないほどに感情を害した時を別にすれば、相手が自殺したいと言うまでに苦しんでいる時でしょうか。それも、死ねとは言わず、「そんなに苦しいならば死んだらいいじゃないか、なぜ貴方はそこで戸惑う?貴方が死んだら私は困るけれども、だからといって、私が困るから貴方に死んでほしくないというのは私のエゴに過ぎないんだから」などということでしょう。

「死ね」とよく言う人が、何かの集団の選挙で、見事その集団の長になったと聞きました。集団そのものが「死ね」と言われるほどにひどいものにならないことを祈ります。

2010年12月10日金曜日

腹ふくるる心地ならば笛を自由に吹きたい

Bugler's Holiday、「トランペット(ラッパ)吹きの休日」、というとルロイ・アンダーソンの名曲であり、運動会の定番曲でもあるので、聞いたことがある人もいらっしゃるのではないでしょうか。私の属しているリコーダークラブで、1年ほど前に発表したので、自分も吹きましたが、その時、この曲の言うところの「トランペット吹き」の意味を知りました。

トランペット吹きというのは、軍隊のトランペット吹きなのだそうです。だから普段は勇ましい曲、軍隊らしい曲しか吹くことができないのだそうです。だから、休日には自分の好きな曲を思う存分好きなように吹いているのである・・・と。実際、その情景を思い浮かばせてくれる曲だと思います。

有名なジョークですが、ある日公園を散歩していると「ノー、ノー!」と叫んでいる人を目にします。不審に思った人が警察に通報すると「彼はホワイトハウスのイエスマンで、休日だから、普段は言えないノーをああやって言っているだけで、何も怪しいわけではない」と言われます。極端な例かもしれませんが「腹ふくるる心地」と昔の人がいったような心地を、うまく解消しているような例だと思います。

人間には言いたいことがあっても、それを十全に示すだけの語彙があるとは限りません(むしろ、人間のごく微妙な気持ちを表すのに全くそのとおりに当てはまる言葉というのは存在しない場合が多いです)。勿論、言いたいことをすべて言えるわけでもなく、むしろ言わぬが花というとおり、言わないことも多くあります。そういう事ばかりを続けていると「腹ふくるる心地」になってくる。勿論、それを言ってしまえば、腹はへこむのかもしれませんが、あまりそればかりやっていると嫌われてしまいます。

それだからでしょうか、私は腹ふくるる心地があるとき・・・まぁ私は普段、いいたいことを遠慮無く言う、およそ謙虚さとは程遠い人間なので、そういう事は多くはないのですが・・・、リコーダーでふける限りの曲を思う存分大きな音で吹きまくるか、あるいは自分の好きな曲を大声で(友人曰く「カラオケでマイク無しでも問題ないレベルの声」で)歌います。色々なストレスがある中で、腹ふくるるストレスは、そのように解消するのが一番であるように感じます。

息を大きく出す、という行為は、腹ふくるる心地の時に一番。そう思いつつ、大声で歌って友人に「今日も聞こえてきたよ」と言われて、恥ずかしい思いです。

2010年12月9日木曜日

「忙しい」が「心を亡くす」こと

そのことは間違いないことだと思うのですが、忙しいということは確かに心を亡くします。ものすごく忙しい、というときは、先ず間違い無く字も返答も乱雑です。

あれもしないと、これもしないと、と思っているときに数値計算の質問やプログラミングの質問がやってきてもまともに答えられるはずもなく、非常にぶっきらぼうな返事で返してしまいます。「あそこをああしたらええやんか!」という感じで返答してしまいます。色々な字がある中で、この字は実に良く考えて作られた字であると思います。

忙しいからと言って心をないがしろにすることがいいことのはずがありません。忙しい忙しいという中で、必ず一息付いている暇がなければ、心そのものが本当の意味でなくなってしまいます。つまり、忙しいからと自分のことばかりに集中していては、感動する心や、友人を大切にする心をなくしてしまいます。また、一般に「心ある行動」と呼ばれる行動をとることもなくなります。忙しい忙しいといつもそればかりに集中していては、心を本当に失ってしまうと、ここ最近の忙しさに思いました。

忙しい時だからこそ、メリハリをつけて休むことができる時間を取らなければならないと思います。そうしなければ、ほんとうの意味で心ある人間でなくなってしまうから。三木清は、著書「人生論ノート」の中で「幸福とは人格である」と述べていますが、人格は心なくば身につくものではありません。

私の好きな中島みゆきさんは「命の別名」の中で「命につく名前を心と呼ぶ」と言っていますが、それを考えれば忙しいということは、命を亡くす、つまり死ぬということを意味します。忙しいという仮死状態を自分の中で維持することは自分にとっていいことであるとは感じません。忙しいと言うのは仮死状態である、そのことを理解した上で、忙しさにかまけることなく、休む時間を取りたいと思います。

2010年12月8日水曜日

ネタ切れではなく

最近のブログの更新の頻度がいまいちなのはブログのネタが無い・・・というわけではなく、ネタはいくらでもあるのですが(その気になれば予定稿60日分書きだめできるかもしれません)、バタバタしているためです。

あれこれ、特にテスト云々がある状況にくわえ、レポート…とここまでなら学生ですが、これに追加して、何故か色々な(主にコンピュータの)質問、と・・・。先週の水曜日だったか、確か部活&質問回答&入浴&夕食で夜は過ぎていきました。これではBlogを書いている暇も殆どありません。

ということで、最近ややブログの更新が滞り気味ですが、ご容赦くださいませ。12/16ぐらいには元のペースに戻ってくるのではないかと思います。

2010年12月7日火曜日

Fountain pen hospital 2011カタログ

パソコンが重く、あまり書く気にならないので、今日は少なめということで。

本日、Fountain pen hospitalの2011版カタログが届きました。表紙はヴィスコンティのホモサピエンス。なかなかそそられる写真ではないですか。

中身をゆっくり見ている暇はないのでまだざっとしか見ていませんが、とりあえず見たのはパーカー。チェックのセンテニアルはもうないのです。いの一番に見ましたが、やはりここにもないのかと思うと、絶版という事実を認めねばならないと思った次第です。

2010年12月5日日曜日

差別のパラドックス

差別をするというのはみっともないということですが、しかしながら、差別そのものにはパラドックスがあるということを考えます。なお、ここでは「差別」を、新明解国語辞典に書いてある意味のうち「(社会的な偏見に基づいて)弱い立場にある(何らかの不利な条件を負っている)人に対して、不当に低い待遇を強いたり、侮蔑的な扱いをしたり、すること」の意味で用います。

内容に入る前にはっきりさせておきたいのは、私は「差別をしても良い」と以下の文章で表明したいのではなく、「差別はするべきではないが、容易に「差別をしない」と言えるものではないから、注意深く行動すべきである」ということです。

差別をするのは良くない、という意見があります。これについて完全に否定する人はそう多くはいないと思うのですが、ここには社会的な偏見が既に含まれているように思います。
「差別は良くない」 という偏見です。
「差別は良くない」として、差別する人を敬遠しては結局のところ差別になっている。つまり、「差別は良くない」との主張は「差別をするのは悪だ」という偏見であり「差別をする立場」を差別している、ということになります。つまるところ「差別は良くない」ということがそもそも差別だ、という意見になってしまうのです。

そうすると、「差別」とは一体なんなのだ、「偏見」とは一体なんなのだ、ということになってしまいます。

偏見というのが社会全体に深く浸透していれば、それは差別と感じられなくなってしまいます。
文化部についての差別、と言って幾人がそれをわかるでしょうか?
公務員叩きは差別でしょうか?
そういった問いかけをやっていくと、差別というものの根底たる観念があやふやになってしまいます。

結局のところ、差別は多数決の原理にしか過ぎない。しかし、多数決の原理は同時に危ういのです。多数が常に最良を決定するわけではないからです。ものすごくつまらない例で言えば競馬ですし、極めて重要な例で言えば個人情報保護法です。前者は、一番人気が勝つとは限りません(だから面白いのですが)。後者は、多数が良いと思って導入したものの、「クラス名簿が作れない」などといった声もあり、最良の形であったとは言い難いようです。

差別の根底が多数決の原理にある偏見であるとするならば、我々は何を持って差別をしないと言えるのでしょうか。差別をしない人間とは、一体どのような人間なのでしょうか。

私は、差別をしない人間ではありません。以下のようなことを考えていますが、さて、これらは差別なのでしょうか。意見を伺えれば幸いです。
・自殺をするほどの苦しい思いをしている人は体の面からは生きられても心の面からは既に生きられない状況にあると考えて良いだろう。そのような人に対して「自殺をするのは最低の人間だ」というような人は、それこそひどい人間ではないだろうか。
・未成年飲酒をして、あるいはさせている人間は法の遵守という面で大切な点を抜かしていて、その点において自分を甘やかしているのではないか。
・自分より立場の弱い人に対して立場を利用して無理を押し付けるような人は、立場の弱い人への人権という観点での配慮に欠けたるところがあるのではないか。

私の考えが差別かどうか、そして、差別あるいは差別でない根拠は何かと考えると、自分ではもう「差別」というものについての実像がつかめなくなってきました。