2010年6月5日土曜日

誰にも彼にも裏切られたような気のする日

私は周囲の人からも良くいわれるほど、予定の急なキャンセルが多く、また、様々な遊びでも、弱すぎて相手にならないかもしくは卑怯ととられるまでに強いかで、応援の余地なく同情されるか、あるいは応援の余地なく敵視されるかのどちらかです。単発で起こっているうちはまだましなのですが、そんなものがなんども何度も繰り返されると、それも短期間のうちに繰り返されると、人間不信のような気分になってきます。

つい昨日、数時間前のことです。1週間ほど前から約束していた食事がキャンセルとなり(別にその人の体調が悪いなどではなく)、また、殆ど日が変わる直前、次の日にお願いしていた、割合大きな予定のキャンセルが、やはりこれもその人の体調が悪いなどのイレギュラーではなく、急に連絡されてきました。その日は偶然、ゲームに興じていたのですが、それは、卑怯なまでに強いととられているのか、一方的に敵視されるばかり。そのゲームだって、予定していたよりも特に何の連絡もなく30分以上待ってからのスタートでした。そんな中で友人から来たメールは耳が汚れそうなものばかり。

正直言って、同じ日にこれだけとことんいじめられれば、私だって嫌になります。誰にも彼にも裏切られたような気になって、事実裏切られていて、嘲笑われているのかもしれませんが、生きているのさえ嫌になってきます。

予定がキャンセルされることは別に嫌だとは言いません。キャンセルというのは不測の事態もあるでしょうし、あるいは前もって連絡できるのであればそれで連絡してくれれば、別にこちらとしてもわだかまりなく理解できます。しかし、前もって連絡できるようなことを、連絡せず、私の方からどうなんだと催促したらキャンセルというのは、はっきりいって人間を軽視しているように思えてなりません。

そこまで軽視されるような価値しかないのか、と思うと、自分のことが卑小でいらないように思えてきます。別に自分が世界の中心であるなどという気はありませんが、少なくとも何かの約束をして、それに変更が生じたならばできる限り早い段階で連絡をするというのがマナーではないでしょうか。不測の事態であれば突然でも仕方ありませんが、前もってわかっているべき事柄での、突然のキャンセルが相次いでは、自分が嫌になるのも仕方ありません。

そして情けないことに、私はそれに慣れてしまっています。

ゲームでは経験があるがゆえに一方的に敵視され(ライバルという度を通り越して)、その上、急な、それも不測の事態でない急なキャンセルが多くて、自分が軽視されていると感じずには居られません。

人間ですから、忘れることだってあるでしょうし、あるいはキャンセルが急というのも、仕方ないことなのかもしれません。でも、ある人が「とても不測の事態とはいえない、前もってわかっていることによる急なキャンセル」に慣れてしまうほどというのは、当人をどれだけ傷つけるか、キャンセルした当の本人たちにはわかっているのでしょうか。

かつては、1週間に入れた予定の7~8割が全て(とても不測とはいえないような事態で)キャンセルになったことがありました。自分でもよく耐えたものだと思います。
こんな思いばかりして、前もってきちんと予定を立てて、それを心待ちにしている自分は何なんだ、と思います。いつもいつも裏切られる準備をして待っているような、そんな気分でいて、何が楽しいでしょうか。したくもない、「裏切られる準備」、私は前もって計画を立てる人間として、いつでもその準備をしていなければならないのでしょうか。

薄っぺらい関係より人脈

確か数年前に読んだ「さおだけやはなぜ潰れないのか」に書いてあったのだと思いますが、薄っぺらい関係の友人を100人作るより、100人の人脈を持つ人を一人強い友人にするほうがいい、という言葉が頭の中にあります。
私は、人脈を至宝と心得て日々色々な人との「人脈」レベルまでの関係を築こうとしていますが、そのために大切なのは何よりも信頼であるという風に、自分の小さい頃の悪事などから思います。

人脈を築く上で大切なことについて一般論があれば、そりゃあ誰でもが飛びつくでしょうが、少なくとも信頼なくして人脈なしというのは間違いないことでしょう。やはり、友人とは十分な信頼関係を築くべきだと思うのです。頼れるときにはしっかり頼れて、頼られるならどんと来い、という、それぐらいの信頼関係が築けて、初めて人脈として成立する、そして「絆ある友人」と言えるレベルの友人ができるのだと思います。

私に色々と頼ってくる人は多くいます。でも、逆に自分が頼ることができる人、となると限られてしまいます。もし私が、人脈をより多く築こうと思うのであれば、自分に頼ってくる人に対して、頼れるだけの信頼を置くことが必要であると思うのですが、自分の普段の行いが悪いのかあるいは自分の考え方の問題なのか、残念なことに、こちらから頼れると思う人は頼ってくる人の数に比べて随分少ないのが現状です。

自分自身が頼られることは嫌いではありませんし、元々世話好きな性分ですから後輩達が何か質問に来たらきちんとわかるまで責任持って教えようと思っています。しかし、逆に私はどれだけ相手に頼れるのだろう、と思うと、「薄っぺらい関係より人脈」が、自分に起因する因子によって実行されていないのではないか、と思ってしまいます。

2010年6月4日金曜日

Talk,Talk,Talkの精神

私は小さいころから「しゃべり」であるといわれます。「男のしゃべりはみっともない」とよく言われますが、それがその通りであるならばみっともないことこの上ないほどに話すことが好きです。

人間のコミュニケーションにはいろいろな種類の方法がありますが、その根本となる方法は間違いなく話すことであると思います。それから筆記に至り、電話、メールと変わっていくわけですが、最もはじめは直接会って話すということ、Talkだったのです。

Talk,Talk,Talk。これはしゃべり倒すという意味ではありません。Talkですから、相手との会話のキャッチボールを多くする、ということです。
私は色々な場で、複数の話を行うことがあります。自分以外に5人ぐらいいて、それが2~3のグループに分かれているとき、両方の話に寄って、問題なくついていきます。これがTalk,Talk,Talkの精神です。

多くの人と会話のキャッチボールを行うこと。たくさんの会話の華を咲かせること。dialogをtalkに変えること。それがCommunicate with peopleの基礎であると同時に、自分という人間を色々な人に知ってもらう手段なのだと思います。

2010年6月3日木曜日

Supercon'10予選

いかにも受験問題のようになったSupercon'10の予選問題。事実、殆ど受験問題のようにして解答することができました。

このページを見ている人の中には、挑戦しようとしている人もいるかもしれませんので、それは書かないことにしますが、少なくとも自分の方針でやってみたところ、ひとまずかなり計算の楽そうな方針がそう難しくなく立ちました。後はどう計算速度を速くするかですが、これは腕の見せ所です。

ひとまず、自分の立てたアルゴリズムでどれぐらいの計算時間になるのか、やってみようと思います。

2010年6月2日水曜日

闘う君の歌を闘わないものが嘲うだろう

タイトルは中島みゆきさんの「ファイト!」の一節。先日書いた内容に、もう少し書きくわえたいと思っての次第です。

私は馬鹿正直などといわれることがあり、正論を吐いて損をするような、そんな感じの人間です。自分より立場が上にある人でも、それが間違っていると思えば躊躇なく指摘するような、上の側からすれば生意気な人間です。

それゆえ、自分が間違っていないという確信があって、相手は間違っているとわかっていてもそれを続けたいという、そんな気持ちがあるときに闘いが生じます。そうして「闘う」私と、目上の人が言うからと我慢して従っていた人たちの間には、やはりタイトルのような、嘲いがあったのではないかと思います。

そんな闘いがあったのが少し前。今、色々な人から、その闘いの結果として自分の結論が受け入れられたことへの感謝の言葉を聞きます。自分にとって色々と弊害があって、辛くて、果てには死にたいとまで思った、そんな闘いだったけれども、それでも、闘わない者が嘲っているのに、ひと泡吹かせられたのではないだろうか、と思います。

闘う私のことを、闘わない者は嘲いました。ですが、結論として、それを嘲ったものは逆にその闘いが終わった後に、決して尊敬されるべき人間になることはないのだと痛感しました

2010年6月1日火曜日

熱唱

自分の好きな曲を聴いていると、いつの間にか口ずさむ。それはだれしも日常的にあることなのだとは思うのですが、本当に心に来た曲を、周りを気にしなくていいならば、熱唱してしまう時があります。

自分の歌がうまいとは露ほども思ってはいませんが、歌うことが好きで、腹から声を出すことでストレス発散になるというのもありますし、何より自分の心にグッときた曲を歌うことでその歌をより深く理解できるような気がします。歌い終わった時、気づくと泣いているときもあります。カラオケでもそんなことがありますが、普通に歌っていてもそうです。

カラオケが嫌いな人がいます。歌うのが嫌いとか、恥ずかしいとか、そういう気持ちで嫌いな人というのは、仕方がないんだな、と思います。自分の下手さがばれるのが嫌だから…というのも、周りが上手だと思っているならば嫌がる気持ちがわかります(でも実際、そんなに「度を過ぎて下手」な人はいないですし、「ものすごくうまいと思う人」もあんまりいないように思います)。
そういう人に、カラオケに来いという気はないですが、もし、歌うのが嫌いというのでないならば、自分の心にグッときた曲を、一度、誰にも聞かれないところでいいから、誰にも気にされないところでいいから、例えば昼間に家で留守番しているときなんかに、熱唱してみたらいいのではないだろうか、と思います。そうすることで、自分の曲というのができて、もしかするとそれがもとでカラオケを好きなることができるかもしれません。

熱唱すること。それは、何かの歌に対して、一つの「礼儀」なのかもしれません。

2010年5月31日月曜日

美丽心情

タイトルに書いたのは中国語の曲で、私の大好きな中島みゆきさんの「帰省」の中国語版です。
曲というのは国を超えると全く歌詞が変わるので(カントリーロードが恒例)、これも和訳するとどうなるか、試してみました。以下、誤りがあるかもしれませんが自分なりの和訳です。

雨の多い冬は結局何とか過ぎ去った。空に小さく、青い晴れ間が見えた。早春の清新な日の光の中で私はその時に書いた日記に書かれていることを読んでみる。その日記の内容は、もとより私が愛している、かつてもらった美しい心を映した一面の深い風景の像のようだ。心傷ついた人を愛したことが、自分の人生の中の記憶を豊かにしてくれた。かつて無邪気であった時の心こそが、待つ中での幸せをわからせてくれる。裏切られて夜に涙を流したことでようやくわかることもある。そういったことも、一種の幸運だ。かつて彼に、一人の人間として完全なまでの愛情を永くもらった事を覚えている。
ある人の馬鹿正直ともいえる勇気はそこで愛されていた。心傷ついた人を愛したことが、自分の人生の中の記憶を豊かにしてくれた。かつて無邪気であった時の心こそが、待つ中での幸せをわからせてくれる。裏切られて夜に涙を流したことでようやくわかることもある。そういったことも、一種の幸運だ。かつて、一人の人間として完全なまでの愛情を永くもらった事を覚えている。

かつて無邪気であった時の心こそが、待つ中での幸せをわからせてくれる。裏切られて夜に涙を流したことでようやくわかることもある。そういったことも、一種の幸運だ。かつて、一人の人間として完全なまでの愛情を永くもらった事を覚えている。明日も私が安心して、後悔することなく、この美しい気持ちを持って過ごしたい。


自分で読んでみてもさっぱりといった感じの稚拙な訳ですが、何となく、愛情に関連した文章になっていて、もしかすると失恋歌なのか…?と思うほどです。中島みゆきさんの「帰省」、この原曲ですが、この歌詞とはまったく違っていて、都会で暮らす人々が帰省によって温かい心を取り戻すというような、そんな歌詞です。ニュアンスまで変わっているのですが、しかしながら、どことなく、美しい気がするのはタイトルが「美しい心」だからでしょうか。

曲はhttp://www.youtube.com/watch?v=kXw2NrvXO18&playnext_from=TL&videos=HT-jVd8sWHAです。日本語の原曲もYoutubeで聞くことができますので、よろしければ聞いてみてください。私は泣きたいほどに心にくる曲でもあります。

2010年5月30日日曜日

本当に「優しい」なら の罪悪感

私は後輩たちに優しいと多くの人に言われます。それは、後輩達に、手とり足とり最後まで教え、少々自分の趣味の時間などがなくなっても後輩につきあうからです。

けれども、それが本当に優しい選択肢なのかどうか、迷う時があります。
本当の意味で優しいというのは、その人自身の最も「ためになる」行為をいつも選べるような、そんな先輩のことだと私は思っています。そうすると、私のようにわからないところはいつでも聞けるというような、そういう状況を作り出すのは、優しいのではなく甘いのではないか、という気さえしてきます。

甘いことと優しいことは、まるで違うことです。私は後輩には甘い方だと思っていますが、それでも、後輩達が明らかに悪いことをしている場合にはきちんと叱るようにしています。「わかる」とかいうレベルの話ではないのです。後輩がきちんとした意見を持っていて、その意見の正誤が判定できないような場合、自分とはまるで違う立場の場合などは「理解する」ことができますが、相手が明らかに悪いという場合、極端な例ですが、後輩が仮に殺人を犯したとするならば、それはすぐさま警察につきだすことでしょう。

後輩のよき理解者であることに日々努めていることが、優しい先輩なのでしょうか。本当に優しい先輩ならば、自分の身も顧みず、後輩が「悪いこと」をするのを止めるのではないでしょうか。自分が憎まれ役になってでも、それを叱りつけるのではないでしょうか。

私は自分かわいさに、そんな場から逃げているように思えてなりません。後輩を理解する立場だから優しい人間なのか、いや、そんなことはないと思います。

本当に優しい先輩とはどんな先輩なのか、自分自身が優しいと感じる自分の先輩のことを考えて、優しいといわれる自分のことが恥ずかしく思えてくるのです。