2010年8月28日土曜日

耳障りな「かつて」の誤読「かって」

onceの訳語、嘗て、ですが、これを「かって」と読む人が非常に多く、耳障りです。こう読んでいる人は私の周囲では偉い人が多く(校長先生など)、私が間違っているのかと調べてみましたが、NHK放送文化研究所によれば間違っていないとのことです。同じページにウォツカやカムチャツカの例が載っていましたが、これらよりもよほど耳障りに聞こえます。これは多分、外来語かそうでないかという点に関係があるのではないかと思います。

嘗て、というのは漢字もあることから、外国語の発音をそのまま取り入れたものではないと思います。つまり、訳語として成立したにしろ、日本語としてあったものをonceに当てはめたにしろ、日本人が日本語として作った言葉だと思います。だから、かってと言われるのに違和感を感じる、と。

その一方、ウォツカやカムチャツカは(多分)外国の人も、それに近い発音で読んでいるのだと思います。発音によって読み方が変わるという例は多く、例えばLagrangeをラグランジュと呼ぶ人とラグランジェと呼ぶ人、Liouvilleをリュービルという人とリウビルという人、Eulerをオイラーと書いた本とオイレルと書いた本、などがすぐに思いつきます。ウォツカヤカムチャツカもこれらと同様に思えるためか、ツが促音化してもそこまで変に感じません。

ですが、嘗てというものが純粋に(中国語以外の他の言語の発音の影響を受けずに)日本で生まれた発音であると思うためですが、私には「かって」は非常に聞きづらく感じます。なにより、日本語の間違いを嘆いているような層の人が間違っているのが一番聞きづらいです。あらゆる面に置いて「正しい」日本語を使うのは難しいことですが、少なくとも誤読については、直したほうがいいのではないでしょうか。「かって読んだ本によると」などとスピーチで言われると、嘗て読んだ本ではなく買って読んだ本、のように思えてきます。文脈から前者だと判断してはいますが、やはり、嘗ては「かつて」というのが誤解も招かないのでは、と思います。

2010年8月27日金曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その3

今回は11位~15位です。11位~20位は私が大好きな曲ばかりなので2回に分けて。今回のセレクトは「時代」について感想を書こうかどうか悩んだ末、自分がそこまでこの曲に傾倒しているわけではない、という意味でやめにしました。

ファイト!:ランキング13位。以前一曲まるごと取り上げたこともある曲ですが、今でも好きです。「闘う君の詩を闘わない奴らが笑うだろう」のフレーズは特に。自分自身が一人奮闘している状況というのは辛くしんどいものですが、それを応援してくれるように感じる歌です。自分自身が一番熱のある人間であるとき、それをキチンと受けてくれる曲でもあると感じます。

捨てるほどの愛でいいから:14位。タイトルからしてわかる、愛情に対する人の執着心というのに共感します。歌自体は男女関係に限っていますが、正直なところ、これは別に男女関係にかかわらないのではないか、と思います。自分が一番しんどい時に感じたことですが、ほんの捨てるほどのわずかの愛でもいいから、愛が欲しい、小さくても見える愛が、と思ったことがあります。そんな経験があるからなのでしょうか、この歌には大変強い共感を覚えます。

ホームにて:15位。陳腐な言葉ですが、望郷の念を描いた作品と私は思っています。故郷に帰れない状況は正直に言って寒い。それは、私が良い故郷を持っていて、そこに自分の愛する人々がいるからでしょうが、しかしながら、望郷の念を実に見事に書いていると思うのです。幼い頃から、父親がたまにかけていて聞いていた曲で、多分私の知っている中島みゆきの曲では、私が最も長く付き合っている曲だと思います。

2010年8月26日木曜日

祭りのあと

私にとっての「祭り」が一昨日・昨日で終わりました。多くの、自分の仲の良い人々が集まっての「祭り」で、この帰省で最高の思い出の一つであることは疑いありません。

家路につき、皆と別れ、最後にひとりになったとき、疲れた身を、泣き出しそうなほどの寂しさが貫きました。祭りのあとの寂しさはどんな祭りでもそうですが、自分が一番期待していて、最も楽しんだ祭りだからこそ、突き刺さるような寂しさを感じたのだと思います。

もうこれだけ楽しんだんだからこの世への未練はない、とまで思うほど、その落差は大きいものでした。けれども、その時に、ふと、祭りの時の友人たちの声が聞こえたような気がしました。

空耳に間違いないのですが、祭りのあとの寂しさに、ふと、その祭りがどれだけ楽しかったのかを感じさせてくれた空耳でした。
祭りのあとの寂しさは心を貫きます。けれども、その淋しさがあるから、祭りの楽しさが引き立つのだ、とも思いました。

最高の「祭り」が幕を閉じたのは本当に残念で、いつまでもいつまでもその中に居たかったのですが、ずっと祭りを続けるわけには行きません。また来年、こんな祭りがあるのだから、
「つかの間 人を信じたら もう半年頑張れる」
半年は無理かもしれないけれど、もう少し頑張ろう、とそうおもうことができました。

2010年8月25日水曜日

パズル「ハニカムネットワーク」の行方

ハニカムネットワークという名前のパズルが、何かのロジックパズルの本におまけで付いていました。六角形の集合体のいくつかに整数値が書いています。例えば、5などです。そういうマスがいくつもあり、基本的にはどの数も偶数個登場します。

例えば、5が2箇所にあったとしましょう。この2箇所を端点として5マス分塗りつぶす、ということを意味します。その時の経路は不明ですが、他の経路と交わってはいけません。この「交わってはいけない」という条件だけで盤面全体の一意性を構成し、かつロジカルにとけるという非常に高度なパズルですが、その本に載っていた2問題を除いて、一切見たことがありません。無論ネットで探したりしましたが、見つかりませんでした。

さて、ハニカムネットワークという名前のパズルは、今どうなっているのでしょうか。どなたか知っている人がいれば教えてください。

何とかして、自分でプログラムを組みたいと思っていますが、まだその実力はないのかもしれません。

2010年8月24日火曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その2

ベスト200を聞いてみよう、というのを先日書いたとおりで、とりあえず聞いてみることにしました。ただ、全曲の感想を書いたところで、自分の好きでない曲もあろうし、陳腐な感想になってしまうというのもありますから、ちょっとずつ、めぼしい曲だけを書いていこうと思います。

PAIN:ランキング1位。私は「心の中には、寂しさの手紙が宛名を書きかけてあふれている」というフレーズが最も心に残りました。どことなく淋しさを感じさせるメロディーの中で、このフレーズの「宛名」はいったい誰なのでしょうか。私はこの結論を出すことはできませんでしたが、それでいいのではないかと思います。寂しさの手紙は書きかけだからいいのだ、と。私はまだここにあるだろう深い意味を読み取れるほどの経験を積んでいない、とそれを痛感します。


二隻の舟:ランキング3位。イメージはカップルなのか、と思いながら聞きましたが、それよりも、船に関するところよりも、最初の「寂しさの分だけ愚かさをください」がこの歌では一番印象深いです。寂しさの代わりに温かさや愛情ならわかるのだが、愚かさが欲しいとは一体どういう事なのか、と考えさせられるのです。愚かさとは人間の本質だから、人間味が欲しいということなのだろうか、でもそんな陳腐な解釈で良いものだろうか、と思うわけです。寂しさを置いて行く「時」がこのまま流れていったとき、私はもう一隻の舟にであい、「ひとつずつの そしてひとつの」二隻の舟となることができるのでしょうか。


永久欠番:ランキング8位。以前からよく聞いていた曲ですが、やはりぐっとくる言葉だと思います。私にも少しは意味が汲み取れるようにも。自分という人間は永久欠番であるのに、その永久欠番は結局忘れられてしまう、という矛盾が描かれています。何よりも、私という人間を永久欠番としてくれる人間はいるのか、いや、自分自身が永久欠番となる場所はあるのか、という気持ちに対して、その答えを歌い上げた曲だと思います。「空の手のひらの中 人は永久欠番」というのですから。私が毎日見ていて、そして仕事にも絡んでいる空のなかで、私は永久欠番なのだと、そう思えば、辛い気持ちが少し楽になる日もあります。


1位~10位のうち「これは!」という曲を書かせていただきました。

2010年8月23日月曜日

ハリーポッターの名言3:「その時間はもう十分にあった」

第6巻下、(初版では)504ページにある言葉で、おそらく第6巻の最後を飾るには最もふさわしいものかと思う、ハーマイオニーの言葉です。長いのですが、「私たちがそうしたいなら、ひき返す時間はあるって。その時間はもう十分にあったわ、違う?」が全文です。

この名言シリーズは物語を読み解くという意味からの名言を上げているわけではないので、この文の何が名言なのか、という気もします。しかし、これは別に物語に限らず、何かの局面で自分を奮い立たせてくれる名言だと思います。

周到な準備の後、自分が何かの挑戦をしようとするとき。資格試験でもなんでもいい。あるいは、万年筆を買う言い訳にも使える。そんな言葉だと思います。自分がそうしたいならば引き返す時間は、もう十分にあったのだ。その一言で、自分の決意をはっきりと確かめることができるように思います。

そして同時に、この言葉は厳しい言葉でもあります。自分が飛び込んでいくときに、言い訳のできない状況を作ってしまうからです。その「十分にあった」時間でも、引き返すことを選択しなかったのだから、自ら耐え抜かねばならない、という厳しさを自分につきつける言葉でもあります。

それでも、何か大きな、それでいてやり終えないといけないことをやるときには、この言葉が大事だと感じます。物語に置いても重要なファクターですが、自分自身に置いても重要な言葉、それがこの「その時間はもう十分にあった」だと思っています。

2010年8月22日日曜日

Wagner神戸大会

おそらく、今までの万年筆関連イベントで、もっとも多くの人を呼んだものだったのではないかと思います。

昔はひとりで行くものだった万年筆巡りや万年筆イベントですが、今は友人と行くのが常になっています。それは私が一人で楽しめないとかそういう話ではなく、むしろ、友人をつれていくことで友人にとっての万年筆のハードルが少しづつ下がっていくのではないかと思うからです。
私が自分ひとりで万年筆を見ていたうちは、やはり少しハードルが高くて、Wagnerの初参加やペントレの初参加、fuenteオフ会も随分とドキドキしたものです。それが、顔のきく知り合い一人いれば、随分違ったものになるのではないかと思っています。

正直、私が最初に参加したワーグナーは、今ほど楽しめたようには思いませんでした。今でこそ楽しく話し、色々なペンを見て笑っていますが、はじめの一回は緊張してばかりだったと思います。それに比べて、今日はじめて参加された友人は初めてなのに笑っていられて、私よりもハードルが低いように見えて、誘ってよかったと思えました。

万年筆によって縁が広がり、今日も万年筆によって楽しい一日が過ごせました。そんな最高の一日は、無論万年筆があるだけで成り立ったものではありません。今日のWagnerやpen and messageに携わった人すべてのおかげなのだと思います。そんな人々に感謝し、また今後も、そんな会合に参加したい気持ちでいっぱいです。