2010年11月6日土曜日

ペン先の調整の意義

いつものごとくpen and messageのページを見て、金曜日なのでペン語りを読む。昨日のことで、本当にいつものことですが、今回の内容は随分と興味深いものでした。普段は万年筆あるいはそれに関する「特論」なのですが、今回は「概論」といった感じだったからです。

ペン先調整は使い込んでいく上での下地である、というのは調整を行う上で本来忘れてはいけない根本的な考えであると思いますが、実際に考えられていることは少ないように思います。まず調整ありき、何でも調整、そんな感が蔓延していて、自分自身も結構調整に頼っているからです。
とはいえ、調整なしでペンが使えないということはなく、自分のペンの調整などここ数ヶ月行っていませんが…。

調整は下地であり、そのペンに秘められた力を最大限出すための方法である、というその意見は、もしかすると現在の調整中心の万年筆マニアに一石を投じる意見ではないかと感じる次第です。

調整はすればいいものではないと思います。私はまだまだ未熟ですが、まず調整ありきではない、というのを、吉宗氏当人から何度か伺っているにもかかわらず、それでもまだ調整に走ってしまいます。調整はあくまでもオプションであると布教論にも書きましたが、まずそれを自分で実践しなければならないと強く感じました。

2010年11月5日金曜日

数値計算の楽しみ

たまには少し、小難しい話を書いてみても面白いかな、と。

友人が数値計算の質問をしてくるようになりました。当人曰く、できそうだから、ということですが、私の数値計算の経験などたかが知れたもの、そこまで良い説明ができるかどうかというと当然否です。ただ、個人的に、数値計算は楽しいと思っている分野であり、やはり友人に解説するからにはその楽しみを知ってもらいたいと思います。ですが、質問をしてくる友人は概ね数学もプログラミングも嫌いなので、苦しみにしかなっていない、というのが現状です。義務感でやっているから、余計のこと嫌なのでしょう。自分が後輩に指導するときは、プログラミングの総合講座ということで、まだ経験の浅いうちから数学的なものから遊びまで様々に取り入れて指導するので、少なくともプログラミングなんて見るのも嫌だ、ということはないのですが・・・。

数値計算の楽しみは多種多様で、私に言わせれば既知の定理をいかに組み合わせてコンピュータの範囲に落としこみ、それをいかに速く、いかに正確にするか、というのが最大の楽しみです。けれども、この楽しみ方は数学やコンピュータが好きでないとできないような気がします。それでは何があるのか。私は、そのひとつの答えとして、温故知新を目のあたりにすることだ、と思っています。

古代ギリシャにおいて、平方根の計算は極限値が平方根に収束する数列を用いた(漸化式による)計算であったことが知られています。それは、次のような方針によるものです。


それが実は、Newton法に当たっていた、というのですから驚きです。Newton法は高校生の数学Bの後半(選択部分)の他、多くの数値計算の書籍で扱われているごく基本的な方程式の解法であり、接線近似を用いた解法です。検索していただければでるので、Newton法とギリシャの平方根の計算がどう結びつくかを、以下に記しておきます。



そして、このNewton法を差分化した割線法はBrentのアルゴリズムへとつながっていくのですが、これ以上はやめておきます。

数値計算法はコンピュータを使うことから、一見するとコンピュータの発達してきた若い学問であるように見られます。しかし、このNewton法からBrentのアルゴリズムへと発展していく流れの中で見たように、古代ギリシャの知恵を発見することができるのです。同じように、江戸時代の和算家建部賢弘による円周率の計算にもローンバーグ積分法を見ることができます。温故知新の言葉通り、古い、歴史的な考えを辿り、それを一般化することで数値計算を学ぶことができます。この温故知新こそ、数値計算の楽しみの一つの大きなファクターなのではないか、と思います。


それを知ってもらえるような説明をしてみたい、と、そう考えながら、まだまだ実力が足りず知ってもらえない自分の未熟さを情けなく思います。

2010年11月3日水曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう その11

81~90位です。私は「心守歌」のアルバム好き??

あのバスに:86位。「あのバス」は何に向かうバスなのでしょうか。行き先も見ずに乗るほどに急ぐ状況で、いったい何を追いかけていたのでしょうか。そんな疑問を抱きながら聴く曲です。「何もかも風景が新しくなるはず」、その一言で、ふと思うのは、この人は今の自分の環境から抜けだしてしまうために、どこでもいいから、ひとまず急いで抜けだそうとバスに乗ったのではないか、ということです。そう、「あのバス」は自分の新たな環境へ向かうバスなのです。数えきれない曲がり角があって、どこへ行くかわからない、自分の新しい環境…それをバスが描いているように思います。

月迎え:89位。「月を迎えに出かけませんか 身体抜けておいでなさい」、魂や心といったレベルのものの話をしているのでしょうか。月を迎える、夜の世界。ある種の幻想であるその夜を美しく描いた曲であると思います。月の柔らかさ、月の寂しいながらの静けさを描いていると。それでも、月を迎えに行くとはどういう事なのかわかりません。ただ美しい月を見るだけなら「見る」でいいではないですか。美しい月、いったい何を?

夜行:90位。「夜さまよう奴」…である私。自分からのゾンデではなく、結果として夜さまようことになっている私。それはもしかしたら、心の奥底でまともな帰り先を見つけられていないからかもしれないと思いました。どこであっても、何か心の奥にあるしっくり来ない感じが、もしかしたら「夜行」せざるを得ない自分の帰り先の無さを表しているのかもしれないと思いました。

2010年11月2日火曜日

2011年の年賀状

11月は年賀状シーズンです、と昨日も書きました。手書きで120通を書く人間にとってこの月は年賀状の肝心要なのです。

年賀状は暑中見舞いに比べて日程に余裕があります。暑中見舞いは私製はがきと便箋で送るのに対し、年賀状は官製はがき(寄付金付き)半分に私製はがき半分ですから、書くスペースから考えても手間はずいぶん変わります。暑中見舞いは時期を見て出さねばならないことと、私製はがきや便箋の発売が6月中旬以降であることから、ほぼ1カ月で完全に書きあげる必要があるのに対し、年賀状は45日で猶予が付いているのですから随分と楽です。と言っても、決して手を抜いているわけではなく、一通一通心をこめて書きますから、一つとして同じ文面はありません。

私が年賀状を手書きにするのは、いくつかの理由があります。
1.パソコンやプリンタの環境が悪いこと
2.自分自身が手書きの年賀状をもらった時に大変うれしいということ
3.年賀状の紙を選び言葉を選ぶのは楽しいということ(それゆえtipocaは使いません)
4.相手の顔を思い浮かべて書きたいと思う、ということ
5.そもそも手紙を書くという行為が好きであること
あたりがすぐにあがる理由でしょうか。中で書いたtipocaは2009年だけ郵便がやっていたサービスで、中面広告の年賀状を無料配布して使ってもらう、というものです。年賀状文化を守るのに役立つと思いますが、経済的理由によりなくなってしまいました。できればもう一度、年賀状文化を絶やさないためにも、何らかの形で復活してほしいですね。

年賀状シーズンは他の手紙を書くことができません。ブログも滞りがちになるかもしれませんが、ご了承ください。とりあえず、年賀状を書いてしまいたいのです。年賀状を心待ちにしている人たちのために、出番を待っている万年筆のために、そして何より、自分のために。

2010年11月1日月曜日

来年の手帳を決めて

11月です。11月になると勉強の時間以外はほとんど年賀状に割かれることになります。今年は約120通。毎年絞っているつもりなのにちっとも減っていません。

120通を11月から12月15日までで書き上げますから、単純には一日3通書けば間に合います。1通20分とすれば1時間です。もっとも、実際はそんなに短時間で書けるはずもなく、もう少し時間をかけることとなります。となると、来年の手帳を選ぶこの時期ですが、もうえらんでおかないと…ということになってしまいます。文具好き・手紙好きの宿命なのかもしれません。

さて、来年の手帳ですが、私はポケット手帳をあまり使わないということに気が付きました。昨年はsmythson、一昨年まではfIROFAXのシステム手帳、とポケットに入る上質なものを、と思ったのですが、夏ぐらいには使っていないことがあり、もったいなかったのです。そこで、初め検討していたsmythsonやレッツオブロンドンはやめました。日々の予定がはっきりわかる、台帳であれば私の手帳は事足りる、そういう観点から今年の手帳は、義理もあって、大和出版の2011ウィークリーダイアリーにしました。

さて、こちらの手帳はきちんと使われるのか、それとも使われないのか。楽しみなところです。

2010年10月31日日曜日

テストが最後の教育

第1志望を受験したその日から3年。大体「成績優秀」と言われる類の集団に所属し続けてきていて、その中で出来の良い試験も悪い試験も経験してきましたが、ペーパーテストを最後とする教育体制はどうかと、中途半端な出来の試験を見ると思います。

合否から言えば合格ですがぎりぎり、そういうテストについて思うことが「テストが最後の教育でいいのか?」ということです。

ギリギリ合格で終わらせたテストというのがあとになって響いてきます。その時はそれでよくて、喉元過ぎれば熱さ忘れる、という一夜漬けのテストも似たような状況です。友人で、現在数値計算のレポートに苦しんでいる人がいます。彼は「線形代数が学年最低点やったから」「プログラミングなんておぼえてないから」と言っています。「だから数値計算が苦手なのですか?」と聞いた時の返事は、きっと「違う」だと思います。その時のテストで通ったから、忘れて放っておいてしまったのが今の「苦手」だと思います。私は英語が苦手です。しかしながら、先生に色々教えてもらいながら学んだため、最低限に読めるぐらいにはなりました。得意とは言えずとも、英語を使って何かをする場合に困るほどではなくなった、といえます。友人は、確かに線形代数もプログラミングも通ったのかもしれませんが、まだよく身についていないところで放り出してしまった。それが今の「数値計算の苦手」に結びついているのだと思います。

テストは実力を測定する一つの手段として優れています。しかし、そのテストを最終目標に据えるのはいかがなものかと思います。それで一定の得点が得られていれば合格。体制としては楽ですが、ギリギリの人はその理解を深めるということをせねばならない、と思います。本来は個人でそれを行うべきなのでしょうが、個人で行おうと言う気にはなかなかなれない、というのが現状です。それ故、大学の単位など特にそうですが、「テストが最後の教育」になっているように思います。私は、それ自体をあまり歓迎していません。と言っても、テストをなくせと言っているのではありません。

テストに合格していても、それが怪しい、ギリギリの得点の場合、口頭試問やレポートの提出等を課すようにしてはどうか、ということです。理解が深まる、あるいは確認できると思うのです。学生としてはしんどいのかもしれませんが、テストを最後の一枚の判断基準とするのであれば、その基準の段階制をより強くすれば、と思うのです。

通ればいいという考え方は、資格試験や入学試験で十分です。それ以外の、学問の試験では、たとえ合格だったとしても、ギリギリだったら追加レポートを課すなどしていいのではないでしょうか。それは私のような学生にはしんどいことかもしれませんが、後々良かったと思えるはずだからです。入試が終わり合格したから数列の総和公式を忘れてしまって導けない、というのではなく、数列の総和公式は忘れたけれども理論的に考えて導ける、という方が良い気がするのです。