2010年7月31日土曜日

宛先不明の暑中見舞い

暑中見舞いを書いて
いつもどおり出したけれど
何通か宛先不明
年賀状の時はと
年賀状を見ようにも
年賀状は来てなくて
宛先は不明のまま
自分の書いた字が目に入る

かつて自分が無碍にしてきた
古い友人を思い出し
ふと彼らもそうだったのかと
わかったように思えてくる
気にもとめてなくて
いつの間にか音信不通で
もうとうの昔に
絆も切れてしまっていて
絆の切れ目はもしかすると
宛先不明だったのではと
取り戻せない切れた絆
もう戻らない切れた絆
何かの偶然で
幸運に戻ることに
賭けてみるしかないのだろうと

宛先不明の友に
まだメールが通じるならば
メールしてみようと思う
迷惑だったら
返ってこないだろうし
私など気に止める価値もないなら
やはり返ってこないだろう
あるいは罵詈雑言だろうか
ともあれ
少しメールを送ってみよう

切れた絆の初めは
もしかすると宛先不明
それならひとまず
宛先不明をなくすことから
そう思って
まずは何かアクションを
それが裏目にでるかもしれないけれど

ふとメールに目が行く
暑中見舞いが無事届いたと
お前も大丈夫かと
お前も元気かと
お前も相変わらずかと
嬉しかったと
そう書かれたメールに思わず涙する
大丈夫だと
元気だと
変わらずやっていると
必ずしもそうとは言えない
自分の現状を
情けなく思いながら

もう何通か
書けていない暑中見舞いがあったはず
白髪が増えて
苦労したのかもと
笑いながら書こうか
それとも
昔のことが懐かしいと
少し寂しく思いながら書こうか
それはその時次第だけれど
宛先不明にならないことを
今は心から祈るしかない

2010年7月30日金曜日

いつの間にこんなに弱くなったのか

中学生の頃、何を言われても、どれだけ罵られてもいつも自分らしくあった私に、恩師の一人が「おまえは本当に打たれ強いなぁ」と言ってくれていました。

でも、今の私は全然打たれづよくない。それどころか、ちょっとしたことを引きずり、それだけで気疲れして倒れてしまうほどになった。…なぜなのだろうか、いつこんなふうになったんだろうかと思います。昔の自分はどこに行ったのかと。

昔の自分だったら、反省はしても引きずることはなかっただろうようなことが、今の自分にはこの上なく重くのしかかってきます。どうしてそこまで引きずらなければならないのかと疲れています。

丸くなったというのは、そういう事なのでしょうか。いつも何かを気にして、何かに怯えて、何かに対して気を張って、ただただ疲れています。昔はずっと気楽だったのに、今はもうその気楽さを味わうことができません。
いつこんなに弱くなったのか、自分ですらわからない。…そして、これからもまだ弱くなるのかもしれないと思うと、辛くて辛くて仕方ありません。これからさらに弱くなったら、もう私に心やすらぐ日々はなくなってしまうではないかと。

2010年7月29日木曜日

任天堂のゲームに見えるゲームの理念

任天堂のゲーム、マリオやカービー、ドンキーコング、ファイアーエムブレムなど様々ですが、その多くについて、コンプリートという概念があり、それを主たる目的としているゲームが多いように感じます。例えばスーパードンキーコングのシリーズはボーナスステージを全てクリアし、隠しコインを集め切らなければ真のエンディングは見られないようになっています。ファイアーエムブレムの封印の剣もそうでした。一方で、メトロイドなどはせいぜい絵が変わるだけで、コンプリートはおまけという感じ。MOTHERシリーズもそうだったような気がします。

任天堂の他にも幾つかありますが、任天堂のゲーム、その中でも特によく売り出しているシリーズについては、コンプリートを目的としているゲームが多いように感じます。それはそれで面白いのだと思いますが、多くの時間を要し、私のような飽きっぽい人間は飽きてしまいます。楽しむためのゲームなのに、苦痛を…というのはしんどい話だと思います。

コンプリートはおまけである、という概念で出しているゲームはいくらでもあります。コンプリートの楽しみは確かにありますが、最初からそれを前提としたゲーム作りだと、しんどいような気がします。一部に売れればいいという意見ならともかくとして、任天堂のような、非常に名の知られた企業なのであれば、主たるシリーズでも、もっと「コンプリートは副次的なもので、コンプリートよりも他に楽しめるものは多い。コンプリートはついでに楽しんでくれ」というものを作ってみてはどうだろうかと思います。もしかすると私が知らないだけなのかもしれませんが、任天堂のゲームは進めなくて困るということが多い自分にとっては、コンプリート基本の任天堂のゲームは、とっつきにくいように感じるのです。

2010年7月28日水曜日

非存在への願望

自分自身が無価値であると感じることは人間誰しもあるものだ、と、何かの本で読みました。それがどこまでの範囲で無価値であると感じるのか、と言うのが人によって違うのではないかというのが私の考えです。

先日の、何よりの「非存在への願望」。それをもう少し書こうと思います。
死そのものよりも死の後に周囲にかける迷惑が怖いということは先日に書いたとおりです。

ドラえもんの「独裁者スイッチ」の話では、消された人がはじめから存在しなかったことになります。その話では最後に消された人が出てくるのですが、むしろ逆で、私は完全に存在しないままになりたいと、出て行きたくないと思うのです。森山直太朗「生きてることが辛いなら」の、よく批判を浴びる部分の歌詞にある通り、私が小さく死ねば、恋人と親が悲しむことでしょうから、少なくともそれは避けたいのです。それを最も都合よく避けられるのが非存在である、と。

今、この文章を書いている自分というものがなくなればどんなにか楽だろうかと思います。生きているということ自体がある種の罪であり、私は他人に迷惑をかけずに生きることができないというのに、死ぬときにも迷惑を掛けるのだろうと思うとなさけない限りです。それならば非存在をというのが、最も手近な逃げ道です。

今はもう、変化が嫌で、自身が嫌で、なにより存在が嫌です。時空が止まっているうちに、自分のいきている痕跡をすべて消して、自分でなくなれれば。あるいは、この「達哉ん」という人間を別の心(命・魂か?)が代行してくれれば。そう思わずにはいられません。

友人も含めて、自殺はいけないと、なにより自殺されるとその友人自身が困ると言ってくれていて、私はまだ踏みとどまっています。そうしてもう2年ほどになります。でも、私が死んで困る人が、悲しむ人が一人としていなくなれば、私はすぐにでも死ぬことができるだろうと思います。誰も私を好まなければ、私が死んだとき誰ひとりとして私を看取ろうとしない状況になってくれれば、私はすぐにでも自殺を企てたい。

また別の本に「すべての人に好かれるのは無理なことだ」と書いてありました。では、その逆は。全ての人に嫌われ、疎まれ、あるいは無関心に、ぞんざいに扱われるようになるのは、無理なことなのでしょうか。もしそれが可能ならば、私はそれに向かって努力してしまいたいように思います。そして、何よりも、それよりも手早い答えとして、非存在、があります。

コメントを下さっているつきみそう様は、悪魔に頼むなら、という前提で非存在へのあこがれを書かれました。私は、自分の好きなハリーポッターの小説に出てくるすべての魔法が使えるならどうするか、というように考えます。…それならば、私を知る全ての存在に忘却術をかける。私という人間が二度と思い出されることがないような、強力な忘却術を。そして、自身に、アバダケダブラ、死の呪文をかける。私という人間が、誰なのかもわからないままに、弔われるような、そんな状況が一番だと思います。

孤独死が問題になっている昨今ですが、孤独死を迎えた人は本当に不幸だったのだろうか、と思います。もしかすると、自分という人間を看とる人がいない状況で死んでいくというのは、非存在の近似なのではないかと。それならば、孤独死を迎えた人の中には、特に、生きたいだけ生きて孤独死を迎えた人の中には、自分の死に方に満足している人もいるのではないかと思うのです。

孤独に臆する自分がいる中で、あらゆる人の忘却の彼方に追いやられた「完全な孤独」を欲している自分がいる。その矛盾も、また自分自身を嫌なものにしています。

完全な非存在になることができるならばそれが一番良いし、逆に、非存在になれないならば存在を証明したいという、矛盾した二つの行動。でもそれは、もしかすると、あらゆる人からの無関心の中死んでいくということと、あらゆる人が「達哉んなんて死んでしまえばいい」と心底思ってくれる中で死んでいくことの、どちらかを欲する自分にとっては、納得のいく結論と言えるのかもしれません。

毎晩思う、非存在への憧れ。…私という人間が存在していなければならないとするならば、それほど辛い罪はありません。そういう意味では、死刑よりも、うけた人間が死ぬまでの間の懲役の方が、もっとずっと苦しい罪ではないかと思います。

2010年7月27日火曜日

誰より寒い夜

夏でも冬でも、自分自身の心の寒さというほど寒いものはありません。それは突然やってくることもあれば、十分な兆候の後に訪れることもあります。

自分という存在がぞんざいに扱われること程嫌なことはなく、これが一挙に来て寒い時と、じわじわと積み重なって寒い時があります。好きの反対は無関心とはよく言ったもので、ただ単に嫌われることよりも、憎まれることよりも、むしろ無関心であることの方が私自身を傷つけ、寒がらせます。

そんな日の夜は、凍えて寝てしまうか、あるいは凍えきらずに辛さに涙しながら過ごすかです。前者にしろ後者にしろ、辛いのはほかでもない自分であり、その寒さをなんともできない自分が嫌です。

寒さが極限に達する日、どうして心を凍えさせるほどの寒さが身を凍えさせないのかと思うこともあります。心が死ぬほど傷つけられていても、人間に死は訪れないという矛盾ほど苦しいものはそう多くはないでしょう。些細なことが積み重なることで、人の心が大きく傷つけられることがあるということを認識していても、自分自身の寒さがどうにかなるわけではありません。

今寒いわけではないから、淡々と書いているけれども、その寒さを短い期間にいくども経験したことが今の自分の人格形成に一役買っています。

自殺することで他人に迷惑がかかることは火を見るより明らかだから、積極的に死のうとは言えません。けれども、そんな寒さを何度か経験したのだから、もう死んでも未練はない、いつ死んでもいいとは常々思っています。寝ている間に心臓発作が起こって死ぬかもしれませんし、あるいは夕立の雷に打たれるかもしれません。通り魔にあってしまう可能性もあります。人間の死がいつくるかはわからないけれども、自分の心が凍てつく寒さを経験したのですから、死ぬこと自体に怖さを感じることはありません。安易に「死=絶対悪」と捉える人は、一度誰より寒い夜を経験して欲しいと思います。

日々を過ごす中で、私は死を何時でも迎えられる状態になりつつあります。別に死期が近いわけでもないのに、そんな状況になるのは変なのかもしれませんが、しかしながら、寒すぎる夜はそのことを教えてくれました。

今、死というものにとって唯一怖いのはその先にある、自分の周囲の生ある人間へかかる迷惑です。それであれば、死よりもある意味酷いのかもしれませんが、自分という存在が完全にないものであった方が、幾分寂しいかもしれないけれども、迷惑がかからないと思うのです。自分という存在を消すことと死ぬことは違います。後者は痕跡が残ります。その痕跡すらなくても良い、存在したくない、あるいは痕跡を我慢して死んでも良い、そんな時がいつきても良いと思える自分は、誰より寒い夜を経験して初めて生まれたものなのだと思います。

2010年7月26日月曜日

自分以外の誰かでありたいと思う日

日々に色々とある中で、ここ数年に幾度も感じている「自分以外の誰かでありたい」という気持ち。天邪鬼で目立ちたがりで自己顕示欲の強い私でも、自分以外の誰かでありたいという気持ちを持つ日は少なくありません。それは、自己嫌悪から来ることもあれば、自分自身の苦しい状況・辛い状況から来ることもありますし、自責の念、あるいは異端として扱われること、自分自身の持つ、人からは「正義感」と呼ばれるもののためということもあります。

自分という人間が特殊に扱われることは嫌というほど経験済みなのですが、それでも辛い日に、何よりも強く自分以外の誰かでありたいと、もっと普通でありたいと思います。
より加えて言うならば、自分よりも強い人に一切無思考で従ってしまいたい、思考力があるために自己矛盾を起こしている自身から解放されたいという気持ちでもあります。

世には、軽犯罪を起こしても都合の良い言い訳で逃げる人がいます。私自身もそんなひとりなのに、それを無理して諌めようとするからかえって辛くなる。

周囲が悪いと思っていても、また、それが正論として悪いと言える状況であっても、孤独になり、自分ひとりが敵として扱われる状況では自分自身がもっと弱ければ、ただ無思考に正論でなくとも悪事を重ねられればもっと楽だろうと考えることもできます。身を落とすということになるのかもしれませんが、それでも自分以外の誰かであれればもっと楽だろうと考えたのは一度ではありません。

自業自得で辛い状況に陥って自分以外の誰かでありたいと思うのは単なる身勝手な逃げであり、許されるものではありません。でも、自分自身が正論を吐いていて、それで辛い状況を続けていかなければならないのであれば、そこで無思考へのある種のあこがれを感じてしまいます。

無論、思考停止して日々を漫然と過ごしているような人間は人間と呼ぶに値しませんから、私の言っていることは人間であることを辞めたいと言っているのと等価です。完全な無思考状態で、ただ誰かに命じられるままに動く状態は、人間のあるべき姿とは遠く離れたものですが、人間が人間である事の辛さに比べれば、ずっと魅力的に見えてしまう世の中です。

他人と違う状況の自分が悪いのかもしれませんし、自分自身が思考してしまう程度に賢いのが問題なのかもしれません。テストにはただ解答を暗記して望み、自分より力あるものであれば無批判に従い、それをまた下にも強要する、自分がそんな存在であればどれだけ楽であろうかと思います。世間一般に賢いと言われるようなステージでも、そんな無思考の人間と呼びがたい存在は存在します。いや、むしろ敷かれたレールを走るだけという意味では、賢い、エリートと言われる人間ほどそうなのかもしれません。

先日書いたとおり、私は策士です。それ故、自分に考えつくほぼ全ての状況を想定します。無論、人間的弱さもありますから、想定して常に最善の状況を取れてはいませんが、逆にその想定故に無思考の人からは理解できない返事をすることもあるようです。

ある人が私のことを「使えない人間」と呼んでいました。別の人は、「組織の下で働くには賢すぎる人間」と評しました。様々な状況を想定し、それを納得しなければ動かないというのであれば、確かに動きさえすればいい機械的作業を行う存在としては極めて不便です。そして、強気の時であれば、それでいいとさえ思うこともあります。使えない人間というのは自分自身が思考停止しているという愚かさを晒している発言だとさえ思います。けれども、そんな無知蒙昧なる存在に羨ましさを覚えてしまうこともあります。それは私が愚かなのでしょうか。それとも「組織の下で働くには賢すぎる人間」である以上、仕方が無いことなのでしょうか。

もしも何かお考えがあれば教えてください。…コメントを書けるような方は、私が羨みつつも蔑んでいる思考停止した存在ではないでしょうから、私自身が身勝手ながらもヒントを得られるかもしれません。

2010年7月25日日曜日

ハリーポッターの名言2:「大変な状況に…」

またまた発言はダンブルドア。第3巻558ページ(初版)より「大変な状況にあるとき、いつにもまして鮮明に、その人達の事を思い出しはせんかね?」です。

ここで言う「その人達」とはなくなった人達の事ですが、ともあれ、この名言は私も幾度か(形を変えて)スピーチ等に用いたことがあります。

この名言をさらに深く理解させてもらったのは相田みつを氏の書籍です。何という本だったかは忘れてしまいましたが、氏は「自分が何か迷ったときは、尊敬する二人の兄ならばどうしたかと考えることにしている」という旨のことを書かれていました。ふと、この言葉を思い出して後悔することがあります。

私は、人間で言えば「策士」というタイプで、自分自身、色々なことに策を持って望みます。無論、策に溺れることはあるわけで、多重に張り巡らせた一見隙なきように見える策でも当然にどこかから崩れ落ちます。そんなことがある都度、私は自分自身の策だけに頼った愚かしさを反省しています。その自分自身の策に「この人だったらどうするだろう」という考えが欠如している場合が多いからです。

本当のことを言えば、自分の尊敬する人ならばどうしたかを考えるべきでしょうし、また、尊敬する人に相談もするべきなのでしょう。しかし、私の臆病な自尊心のため、また、人を完全に信頼するのに何かわからない怯えがあるため、私はそう滅多に人に自分のことを相談できないのです。特に自分から言い出す必要があるときは…。

相談というのは、心の病を抱えた人が最も必要なものであり、同時に最も自分から求め難いものであると思っています。自分自身の経験でもそうでした。だからこそ、ダンブルドア先生の言葉のとおりに、「自分自身の中に生きる、すでになくなってしまった、自分の尊敬する人」に相談することが大切なのだと思います。

この部分を読んでいつも思うのに、本当に稀にしか自分の中の人に相談していない、自分が恥ずかしいと思います。

そして、自分自身が相談相手として選ばれることもある身として、なにより、他の人から相談を受けるのは能動である必要があるということも同時に思います。相談したいなら来て下さい、というのでは相手は来づらいし、くるときには十中八九手遅れかそれに近い状況です。日々相手のことを見て、自分の身近にいる人に対して何か違和感を感じたら、積極的に、何かあったのか、どうかしたのかと聞いてみるのが大切だと思います。おせっかい、大きなお世話と思われることも多くありますが、それでも相手がほんとうに困ったときに、早い段階で相談にのるためには、相談を「受ける」ことの積極性が必要です。

そんな相談ができないとき、まずは自分の中の人に頼ってみることが大切だ、といつもここを読むたびに思います。