2010年6月25日金曜日

ドキュメントを作るための根気

色々とドキュメントを作成していますが、レポートのような小規模のものではなく、何十ページ、何百ページに渡る、書籍レベルのドキュメントの作成には根気が必要です。自分がやらなければ…と言う気持ちで書いたとしても、良いものにならないのはわかりきっています。

ドキュメントの作成で最も大切なのは根気であり、その根気を出すための何かをきちんと持たなければなりません。できれば、その根気を出すための何かは外的要因がいいように思います。例えば私はプログラミング関連のドキュメントをよく作るのですが、その多くは自分の後輩のためという強い気持ちが原動力となっています。後輩を常日頃カワイイと思っていなければ到底できない芸当なのかもしれませんが、それでも、後輩を思う気持ちが私のドキュメント作成を可能にしてくれているわけで、感謝しています。

様々にドキュメントを作っていて思ったのは、やはり何よりも義務感以上に根気を出させてくれる強い要因が必要だ、と言うことです。

それをきちんと意識して、これからもドキュメントを書いていきたいと思います。

2010年6月24日木曜日

返事という基本

最近、様々にメールを送りますが、「1週間以内に返事をください」と書いたメールに1ヶ月たっても返事をくれない人が多数います。Eメールがまだ珍しかった頃、大抵の本には「必ず返事をしましょう」的なことを書いていたと思うのですが、今やそんな文化は廃れてしまったのでしょうか。

様々に文筆活動をしている自分ですが、なにより楽しいのは個人的に書く「私書」です。それは相手が読んでくれるからと信じているからできるもので、返事も何もこないのであれば人間不信になってきます。返事の形式など二の次、「届いたよ」の一言ぐらいはくれても良さそうなものなのですが、そういう人の気持ちを踏みにじっても平気な素敵な人が多い世の中には何度となく驚かされます。

私は、中島みゆきさんの歌をよく聞きますが、その中にはいくつも、はっと来る表現があります。「顔のない国の中で」「機械たちを相手に言葉はいらない、決まりきった身振りで街は流れていく」「まるで人のすべてが敵というように…」といった言葉です。

今、自分の一部の友人(と思っているだけで本当は向こうは友人と思っていないのでしょうが)から、まともに返事が来ることはありません。別に手紙を送ったからといってどうのこうのという気もありませんが、少なくとも「返事をください」と書いているメールや手紙には返事をするのが礼儀というものなのではないでしょうか。

それとも、人間が機械化している現代において、私の考えは古臭いものなのでしょうか。もしそれならば、中島みゆきさんの「顔のない街の中で」の一節を、大声で聴かせてやりたいと思うのです。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を 思い知るまで見知れ」


見知っている人すら「知らない」現代人。そんな現代人になるぐらいなら、せめて見知っている人だけでも声をかけられる、願わくば見知らない人にも親切にしてあげられる顔のある人間でありたいと思います。


「たとえ世界を得ようとも、自分自身を失えばなんになろうか」と言う言葉があります。この言葉を聞いて共感してくれる人はどれだけいるでしょうか。そして、それに共感してくれる人の一体どれだけが返事など何もよこさない、顔のない人なのでしょうか。自分自身が顔のない存在になっていないか、一度確かめてはどうかとあらゆる人に言いたい気分です。

2010年6月23日水曜日

長文メール

メールと言う伝達手段はあまり長く書くのに向いていないと重々承知なのですが、といって、連絡の場合にはどうしても長くなってしまう場合が多くなります。また、それがメーリングリストの登録アドレスならばパソコン向けの長いメールを携帯で受け取ってしまって読みづらいということもあると思います。

これらをなくすための手段を色々考えましたが、少なくとも、eメールが短くてすぐに読めることを要求する限り、いくつかに内容を分けたとしても決して連絡にはむいていないような気がします。

eメールが短いことに拘泥する限り、我々は連絡にeメールを使うことができなくなります。

長文メールを我慢するか、それとも連絡はすべて郵送などにするか。eメールの長さを気にする限り、そんな選択肢しか思いつかないのは、単に私が狭量なだけなのでしょうか。

2010年6月22日火曜日

ハリーポッターの名言1:「他人の正しさを許すより…」

新しいBlogになってから何もシリーズ物を書いていないことに気がついたので、なにか書こうと思ったとき、ふと、手元のハリーポッターシリーズを見ました。まだ世間が騒ぎ出すより前に第1巻を読んでいた私。その中の名言は色々あるのですが、自分なりに解釈も込めて整理しないと…思っていたので、それをシリーズ化してみることにしました。

第6巻(謎のプリンス)初版第1刷146ページのハーマイオニーの発言に、ダンブルドアの発言を引用したものとして
他人の正しさを許すより、間違いを許す方がずっとたやすい
と言う一節があります。

他人の正しさを許すこととは、つまり自分の過ちをみとめるということ。他人の間違いを許すことは自分の正しさをみとめるということ。この違いを考えれば、至極当然のことなのですが、しかし、自分が間違っていると認めるのは誰にでも難しいものだという事をよく書いた一文だと思います。

自分が間違っていると明らかな証拠を突きつけられても、時として自分が明らかに正論から外れていたとしても、それを認められない人が多くいる世の中です。私自身、自分の過ちのすべてを認めることができるかといわれれば言い切ることは到底できません。

その一方で、自分が正しいとき、人間はそれをはっきりと持って相手に示すことができます。

他人の間違いを許すと言うのは、自分が正しいという意味で、自分が優位に立ちます。優位側から人を許すわけですから、これは単純です。しかし、他人の正しさを許す、これは自分が劣勢である状況で相手を許す必要がある。そもそも許すとは優位の者が劣位の者に行う行為ですから、正しさを許すというのがある種矛盾しているわけです。

それほどまでに人間は、自分が誤っていることを認めたくないのだ、とこの一文を読んで思います。

逆に、他人の間違いを許す側が、寛大にならねばならないと思うのですが、自分自身がそれを実行出来ていないと言うのが、情けない限りです。

2010年6月21日月曜日

取れない疲れ

どうにも最近はずっと疲れが取れません。それも別に特別のことをしているわけでもないのに疲れています。睡眠をとって起きたらつかれているし、起きてからなにか活動してもなんとなく気怠い感が抜けません。

ずっと疲れていて、精彩さを欠く状況になってきているのが、自分でも非常に気がかりです。疲れをとろうにも、眠っても疲れが取れない。其故、目に見えて憔悴しているのでしょうか、周囲にも心配をかけているようです。

眠っても疲れが取れない経験は今まで多いですし、数週間全く疲れがとれたと感じられない日が続くのは過去にも経験済みです。ですが、今回は眠気も一緒に襲ってきているのが違うところです。そして、なにより腹がたつことには、夜に眠ろうと思っても眠れないことです。嫌々ながら夜型になっているような、そんな気がします。

眠る自由というのを奪われた人間。それがどれだけ辛いかは当人にしかわかりません。眠りに不自由していると、いつも思うのが、なぜ私は眠ることすらできないのだろうと言うことです。

最も基本的な生物の本能的な活動、それが睡眠です。睡眠がままならない状況というのは、もはやその人間が生物でなくなってきていると言うことなのかもしれません。心乱されて、環境が良くなくてと言うのは別として、本能的に眠いと感じており、眠るに十分な環境があっても眠ることができない、そんな睡眠の不自由さは、私が人間ではなく、生物ではなく、無生物になってきていると言うことなのかもしれないと思うと、取れない疲れが不安で不安で仕方ありません。

2010年6月20日日曜日

GCJを和訳しよう

最近はあまり競技プログラミングをやっておらず、又対策出来るほどの時間もないので、GCJなど参加したいと思いつつもここ3年参加しておりません。一切対策なしでなんとかなるような実力があるわけでもないので、一応いろいろ復習した上でやりたいのですが、まだまだのようです。

そんなGCJですが、私が一番困難を感じるのは英語で書いていると言うこと。そもそも英語があまり得意ではないので、どうも問題文の理解に時間がかかってしまいます。なので、自分で楽しむ際にはまず和訳をしないといけません。

GCJの問題の和訳をちゃんと作れれば、それを後輩たちに対して問題として出すことができます。もちろん、解答や解説もつけないといけませんが、それを解ければ…と思っています。