2010年9月18日土曜日

万年筆布教論8 「入門にあたり教えること」

呼び水のペンの段階から購入にいたるまでに布教者が使用方法として教えるべきことについて簡易にまとめます。布教者の知識は十全たるものと云う前提です。

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呼び水のペンあるいは第1本の購入時に、勿論万年筆の使用法としてインクの入れ方や書き方(近年はペン芯を紙側に向けるということを知らない人も多い)を説明するだろうが、これに加えて手入れのことを説明する必要がある。これはどの程度説明するべきかというのが本章での主たる話題である。使用する上で必ず教えるべきことは店員も説明するはずなので、それ以外に何を加えるべきかというのが布教者に求められる。

万年筆は手入れが重要であるが、大抵の説明書等に書かれている通り、毎日欠かさずの使用が非常に良い手入れとなることは疑いない。このことをまず第1に強調したい。これは、万年筆そのものの手入れになるばかりでなく、万年筆の良さを知る契機の提供ともなるためである。毎日使え、というのは陳腐な話であるが、布教論においても(布教論以外でもそうだろうが)重要である。万年筆を入手したとき「大事に使う」というコメントを残す人は少なくないが、このコメントには十分注目して欲しい。大事に使う、というとき、「ここぞというときに使う」という意味としてしまう人が多い。万年筆はそれにふさわしいと思われる場面で、という考えであろう。だが、一般の人にとって、万年筆にふさわしいという場面はさして多くない。公文書に万年筆は使えないというような意見の人すら存在する現在において、万年筆にふさわしい書く機会というのは筆まめでなければ得られないと言って過言でない。そこで、大事に使うというのは場面に応じて使うということではなく、ペンそのものを大事にしつつも各場面において使える限りは存分に使うことである、という認識に改めておいたほうが良い。初心者、一本目の方が「ありがとう、大事に使います」とコメントをくれたとき、私は必ず「大事に、というより、存分に末永く使ってあげてください」と返すことにしている。ともあれ、毎日使うこと、機会ある毎に使うことは強調してしすぎることはない。

それ以上に手入れ・入門にあたって教えることは個人対応で十分であると思う。多くを教えても憶え切れないというのもある。まずは毎日使ってもらうこととし、「いつでも質問があれば」という体制を整える方が購入時に多くを教えるよりよほど良い。強いて教えるとすれば、別のインクに変えるときや数カ月使った時には水洗いして欲しい、ということを言っておく程度である。それとて必ずしも言うべきというわけではなく、普段連絡がつきにくいような場合には話しておいても良い、程度のものである。連絡がつく状況ならば無闇に与える情報を増やすことに利はない。それを話すぐらいであれば、ひとまずは毎日使うことを十分に強調し、後は布教者や販売店のアフターサポートに任せてしまえばいいのである(布教者のアフターサポート論については後述する)。

使用にあたって必要なことと、最低限の注意点(ex.キャップを閉めておくこと、キャップを尻軸に付ける場合のクリップの向き等)を紹介し、後はただ使うことを強調する。それにより少ない情報を確実に伝えられ、結果として万年筆のハードルを下げてくれるのである。
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書いていることはいいのですが、「毎日使うこと」は多く持っている人ほど困難なもの。そんな場合は「使わなかった例として…」と反面教師もまた面白いかもしれません。

2010年9月17日金曜日

古本を見に行くこと

私が町をぶらぶらしていて一番惹かれるのは文具店で、次は紅茶店ですが、その次に惹かれるのは食べ物ではなく古本屋です。カッコよく言えば古書店なのでしょうか。食べ物のお店も好きですが、お腹を満たすだけよりも、じっくりと楽しめる古書店が好きです。そこには、文具店とはまた違った味わいがあります。

古書店で色々な本をさがすと、絶版になった本も多く見受けられます。その中には古いながら現代まで変わらないようなことを書いている本もありますし、色々なジャンルの本の中には現在見つけられないような入門書・啓蒙書があることもあります。私の好きなコンピュータの分野ではそうはいかないですが、それでもかなりの数の書籍を楽しむことができ、しかも安いのはいいところです。

図書館と古書店はどう違うのでしょうか。私は、古書店は出会える場所だと思っています。書店もそうですが、ふっと見て面白そうな本に出会えるのは図書館よりも書店・古書店です。図書館はどちらかというと調べに行くという感じです。それはきっと、図書館が貸出という形態を取っているからであり、期間に迫られて読むからです。私は、調べごとこそ図書館を使いますが、基本的には自分で買って、気長に読むほうが好きです。古本でも構いません。それをまた読み返したいと思えばおいておきますし、もういらないと思えばまた古書店に売りに出します。そうして売りに行った古書店でまた新しく面白そうな本を見つける。これが大好きです。

古本屋というと漫画を大々的に扱っているお店も多く見受けられますが、私はあまり多くの漫画を読んでいないので、せいぜい自分の好きな一部の作品を買おうかどうか悩む程度です。そんな観点からすれば、漫画がずらりと並んでいる現代的な感じの古本屋より、書棚がぎっしり並べられていて、ともすれば埃っぽいとも思えるような、いかにも昔ながらの古書店の方が好きです。漫画が多くなくてもいいのです。

ネットで本を探すときにも似たような楽しみ方をすることがありますが、何より古書店が一番です。次点は書店ですが、これは古書店の方が年代の観点からいろいろな意味で面白い出会いが多いことと、やはり値段の問題です。

この前、アマゾンでは数学小景(高木貞治)を買おうとして、数のエッセイ(一松信)に出会いました。ふと立ち寄った近所の書店では、甘党ぶらぶら地図(酒井順子)を買い、実家の近くにできた現代的な古本屋のワゴンからはパソコン用語語源で納得!(藤田英時)を掘り出しました。古本を見に行くことも、色々な本を見ることも、面白い出会いが待っています。ちょっと時間があればネットで、ぶらぶらできるならば手近な古本屋で出会いを探すことが、友人と色々話す素になっています。

最近は文具店に飽きてきましたし、紅茶店では買わなくなりました。見知った文具ばかりだから、新たな発見はそう滅多にない文具店、紅茶が多すぎてこれ以上買っても結局飲む機会に恵まれないだろう紅茶店、と、どちらもかなり楽しんでしまったからでしょう。そうすると、しばらくは古書店が一番になって、東京では神田に出かけるのがひとまず楽しくなりそうな気がします。最近興味のある尾崎放哉でも探しながら、またいい本に出会えれば、と思います。日によっては、思いがけず、いい本‥専門書から啓蒙書にいたるまで…と出会えることがある古本屋、まだ飽きる日は遠そうです。

2010年9月16日木曜日

万年筆布教論7 「試し書きによる選び方」

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先迄の項において、購入に関する流れは記しており、前項からはよりつぶさに、細かい点を見ている。本項においては、試し書きの方法とそれによるペンの選び方について詳述する。無論、万年筆好きが試し書きによって好みのペンを見つける方法を述べるのではなく、万年筆初購入者に立ち会いのもと試し書きをする際、どのようなことに気をつけるべきかを記す。

前述の通り、試し書きによる書き味は決定だとはなりえない。後の調整関連項目にも記すが、初心者の万年筆の書きぐせはあまりあてになるとは言えない。これから変わっていくのであり、安定していないというのが正確なところである。事実、万年筆を使うようになってから寝かせるようになる人や筆圧が低くなる人は多く、呼び水のペンにより多少慣れていたとしてもあくまで多少であるということを念頭においておかねばならない。

試し書きに関する作法については様々に知られており、趣味の文具箱等でも取り上げられているので本項では記述しない。その作法について一通り紹介した上で、布教相手に試し書きをしてもらう。インクの質、用紙の質はそのペン自体に対する絶対評価を下すのに重要ではあるが、初心者に紹介する場合にその点は無視して良い。布教者が簡易な試し書きを行ない、及第点に及ぶペン数本を試し書きしてもらい、それらの相対評価により選ぶようにする。これは、そもそも多くのペンを書いていてはっきりとした評価基準を持つマニアと違い、初心者は評価の拠り所とするペンを持たないためである。あるいは、呼び水のペンを評価の拠り所とする場合もあるが、先に述べたとおり、呼び水のペンと比較すればどれも良い、という状況であるべきであり、逆に呼び水のペンより悪いと感じるペンは購入すべきでないため、この評価基準は無視して良い。呼び水のペン一本だけの評価基準で多数の万年筆を統一的に評価するのは不可能である。そもそも、万年筆インプレ広場などで議論がかわされることもあるほど、万年筆の書き味の感じ方は流動的である。そのような状況下で、一本のペンを評価基準に置いたところでそれはなきに等しい基準であるといえよう。

相対評価で気にすべき点はどこか、というところであるが、用途に応じた太さであるならば気にすべき点はさして多くない。強いてあげれば、その人の最速筆記速度に対応するかという点であろうか。ただ、書きぐせのさだまっていない初心者なのだから、この点についてもあまり気にする必要はない。しからば一切気にしなくてもよいかといえばそうではなく、当人が「書きやすい」「使っていたい」と感じられること、そして、ある程度の連続筆記で手が疲れないことの2点を重視せねばならない。

上記2点は万年筆初心者であっても単純に分かりやすい万年筆の利点であり、それ以上に万年筆を長く使ってもらう上では不可欠のファクターである。相対評価においては当人が一番「書きやすい」もしくは「疲れにくい」と感じたもの(出来ればその両方を最も強く感じたもの)をセレクトするのが良い。

先に万年筆の書き味の絶対評価と書いたが、これは多くのペンの書き味を試し、それに対しての相対評価の平均値と単純に考える。ペン先の柔軟性等についても、相応の本数を書かねば言いたいことは理解出来ないだろう。インクフローが潤沢、と言っても、どの程度を潤沢とするのか。インクフロー定数の定義に関する研究が進めば(本論文執筆時点においては理論構築中であるが難航している)、確かに数値化した絶対評価が出るだろうが、それが人間の感覚と一致するかどうかは別問題であるし、現状私が構築している理論においてはインクフロー定数は個体依存である。これらの点から、万年筆の絶対評価というものは相対評価に帰着されると思っていいし、相対評価としての基準を持たない初心者の場合はなおさら相対評価を意識した試し書きを行うべきであろう。

相対評価のペンについては、値段及びデザインで選んでもらった後に、布教者側のペン先状況チェック及び試筆によるチェックで及第点が取れるようならば全て加えてしまって良い。あまりに本数が多い場合は予選決勝法でも良いが、予選決勝法を行う場合は絶対に1本の購入に絞るようにしたい。2本以上の一度の購入は(後に詳述するが)そもそも勧められないが、予選決勝法を行う場合、次点の決定は単純に選ぶ場合よりも面倒になる。書き味は感覚であるが故単純に数値化されることはないので、予選決勝法で各予選において次点までとった場合、その微妙な差異に購入者本人が翻弄されてしまうおそれがある。十分に悩んだ上での1本を相対評価で買うのが布教論における一本目の正当な購入であると考えている。

試し書きで選ぶ際の点をまとめれば、
・十分な数の相対評価対象を用意すること
・単に当人が分かりやすい「疲れにくさ」「書きやすさ」を重視すること
・試し書きにおける用紙やインクの質、あるいはつけペンでの試し書きであることによるインクフロー補正等は布教者側がそれを考慮し、及第であるペンを相対評価対象とすること
の3点となる。
--以上本文--
マクロからミクロへ、という順序で書いています。論文自体はマクロからミクロへ書き、その後この流れ以外の部分(=オプション)について述べる、という構成です。

2010年9月15日水曜日

読まなくなった、は本当か?

本を読まなくなった時代ですが、我々はそんなにも読んでいないのか、と考えると、本は確かに読んでいないのかもしれませんが、その他で多くのことを読んでいるように感じます。
私は(時間の観点から言って)文章を読んでいる時間と文章を書いている時間がほぼイーブンですが、大抵の人は何かしらの文章を読んでいる時間の方が長いのではないでしょうか。各種サイトにしろ、辞典で何かを調べるにしろ、新聞を読むのもしかりで、読む時間は随分見受けられるように思います。

読み書きが基本と言われる教育で、読書をしない読書をしないと常々騒がれています。これは別に今の時代に限ったことではなく常々だ、と私がお世話になった先生が仰っていましたが、現在は読むことの多様化が「読書」の時間を減らしているのではないかと感じます。別に多様化した「読む機会」が読書の効用と同じものをもたらすとは言いません。しかし、単純に文章を読むという観点からすれば、メディアの多様化から全体的な読む量が一定のまま読書に割かれる量が減っていると言えるように思います。であれば、読書から得られる様々な点はともかく、「文章を読むこと」については別段大騒ぎする必要はないのではないかと思います。読書自体によって得られる人生の追体験などという点に入ればまた話は変わってくるでしょうが。

私自身は結構本を読んでいて、なんだかんだで結構な量の書籍を読んでいますし、他の文章を読むことも含めればその量は相当なものになります。本屋に行くと何かしら欲しい本があって、古本屋はなおさらです。専門書・教養書・新書・文庫等色々と読んでいますし、「見る」本もいくらか読みますが、様々な分野に臆することなく読むことで、随分楽しめます。

読書だけではなく、色々なことで文章を読む機会の多い現代では、これから訪れる秋を「読書の秋」とするのではなく、「読文の秋」とする方が面白いかもしれません。

2010年9月14日火曜日

万年筆布教論6 「呼び水のペン」

ここで、少し耳慣れないフレーズとして「呼び水のペン」について書いていきます。これは、私の布教論特有の用語です。
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先まででひとまず万年筆の購入についての大まかな論を展開したが、それにいたるまでの興味をひく段階はどうすればよいか。少々記したが一本を何らかの方法で渡して興味を持ってもらうのが良いということである。これを本文では「呼び水のペン」と題し、これについて本章で論を展開する。
呼び水のペンとしてふさわしいのは、それを渡す状況にもよるだろうが、原則は最上でないながら万年筆の良さを示すペンである。M1000や149を始めとした、多数に受け入れられているペンを渡せばそれは当然良いに決まっているのだが、次への興味を引き立てない。その一本で満足してしまうからである。一本で満足してもらうというのであればこれでもいいのだが、自ら興味を持ってもらって購入してもらってこそ布教という立場からは嬉しくない。何でもいいから万年筆人口を増やしたい、というならば金に糸目を付けず高いペンを配ればよいのだが、これで使ってもらえるかどうかは別問題である。そもそも、人に何かしらの状況で渡す万年筆でも、良いものは高すぎる場合が多い。高すぎる贈り物は好意を通り越して嫌味ですらある。そもそも高価と思われがちな万年筆のことだから、なおさら良く考えて選ぶ必要がある。
まず、見た目に「らしくない」万年筆が良いということ。そして、書き味はそこそこによく、問題が起こりにくいペンが良い。出来れば無難に、細めのニブが良いだろう。トライアングル万年筆のデコペンや、OHTO社の1000円台の万年筆は確かに安いが、インク漏れが起こりやすかったりニブが特殊であったりと布教に向いているとは言い難い。一方で、高価な、742等は嫌味であるしそもそもその段階で満足してしまう。呼び水のペンはどんなに良くても国産1万円級までで、国産1万円級もよほどでない限りは避けたほうが無難である。pen and message店主吉宗氏が過去に記した文「筆記具担当者のひとりごと」によれば、国産1万円級はほとんど完成されているがまだわずかに至らぬ点があり、その至らぬ店をカバーしたのが2万円級であるとのことである。この僅かの「至らぬ点」こそが次のペンへのキーであり、呼び水のペンに要求される点である。
呼び水のペンはまず書き味がよく、そこそこメンテナンスなしで使えなければならない。よくある袋ペンケースに入れてシェイクされたぐらいでインクが漏れるようでは論外である。万年筆好きであればおよそしないことであろうが、他のペンとごった返す中で乱雑に扱われても問題なく使えて、なおかつ書き味の良いペンが呼び水のペンとしてふさわしい。
となれば、概ね国産鉄ペンかあるいはペリカーノジュニア、サファリ、IMなどの5000円を切る万年筆が上がってくる。少しマニアックなところでは、シュナイダーのベースなどは呼び水として見事と言える性能を持っている。頑丈さに関しては驚くほどであり、書き味も悪くない。呼び水のペンは鉄ペンであれば金ペンの方が良いという一般論を突きつけられるので、書き味は良くていい。むしろ、鉄ペンとしては書き味が良い部類でなければならない。上記のペンを適宜な調整で渡すことが出来れば言うこと無しである。自己調整で少々良くするだけでもずいぶんと違うものであるので、自己調整修行中という人はある程度うまくできた練習用の万年筆を呼び水のペンとして使うとよいだろう。
ここで、呼び水のペンに布教者の好みを反映させるよりは購入の時の候補に布教者の好みを反映させたほうが布教者と似た好みになりやすいことを付記しておく。これは、呼び水のペンはあくまで「かませ犬」だからである。呼び水のペンは名前の通り興味を起こさせるものである。無論、万年筆の良さを知るという観点から、ずっと使っていけるペンであるべきだが、と言って、その一品で完全に満足しきってしまうようではいけない。それ故、ここに好みを反映させても当人への影響は大きくないのである。
以上の観点から言って、一般論で多少欠点を指摘できる程度の「良い」万年筆、それも安価なものが呼び水のペンとしてはふさわしい。鉄ペンであるというのは大きなファクターで、鉄<金という不等式はマニアに限らず成り立つ(というよりむしろ、マニア以外の方がマニアに比べて圧倒的によく成り立つ)ため、ここで、「金ならばもっと」と興味をそそることができるのである。
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実際の文書では呼び水のペンとしてふさわしいペンのリストを掲載する予定ですが、ここでは省きました。他にも、事例紹介等はこれまでの文から省いています。主論を大切にしたいためです。

2010年9月13日月曜日

桃太郎電鉄WORLDの発売

12月2日に桃太郎電鉄WORLDが発売されます。風来のシレン5と同じ月の発売、「確実に購入したい」タイトルが2シリーズしかない私にとってはものすごく珍しい現象です。

今回の桃鉄は世界規模ですので、今までの知識が通用しない場所も多々あるように見受けられます。さくまさんのホームページ等で情報を仕入れていますが、果たして私が勝てるだけの知識を身につけられるのは何年プレイしたあとなのでしょうか。

桃鉄は乱数が絡んできますので、AIのアルゴリズムは相当に難しくなります。Wikipediaなどにも書かれていますが正直に言って付いてきていません。軽く崩してやればすぐに勝てる、それがAIです。最善の一手もへったくれもありはしません。

私が桃鉄で一番好きなのは乱数をたち切ってしまうこと。乱数の出にかかわらず(あるいはほとんど関わらず)決め手となるような一手を、あるいは相手が乱数の出の関わる戦術を取ればかわせないような状況に追い込んでしまって乱数自体を絡ませずに決めてとなるような一手を、放つことです。それが私の桃鉄における「最善の一手」と「次善の一手」の技法です。特に長期間の対人桃鉄においてこの技法は恐ろしいまでの実力を発揮します。

今、私に長期桃鉄で勝ってやろうと虎視眈々と狙っている人が幾人もいます。その人達がかいくぐるべきは桃鉄の付いてきていないAIではなく、そのAIをサラリと崩し、乱数を断ち切る私の戦術です。乱数のない戦略だけで勝てる桃鉄は面白くないと私自身よく知っています。乱数をいかに料理するか、桃鉄の楽しみの一つです。私が料理できないような乱数戦法を意図して仕掛けるか、あるいは私以上に乱数を断ち切り、真っ向で戦略勝負にするか。後者にしてきた人は殆どいません。統計学的なところがわからなくても、大局的に統計を駆使して乱数を味方にするのが私の戦法であり、同時に相手の乱数を断ち切るのが私の戦法です。それ故、一方で勝つのは難しい。乱数戦法と非乱数戦法の両刀使いこそが、最も楽しい桃鉄で、これが次の桃鉄WORLDでもできることを信じています。

2010年9月12日日曜日

パイロット企業広告の第4弾

今回は、ちょっと面白い万年筆ネタがあったので布教論をおやすみさせていただきます。2日後にはまた続きを書くのでよろしくお願いします。

パイロットの企業広告
http://www.pilot.co.jp/ad/corporate/paper10.html
の第4弾を見ました。万年筆の世界では、好きな人も多い広告ではないでしょうか。かくいう私も第1弾からいつも見ていて、特に「万年筆はメールやブログに賛成です」「手紙をもらうと暖かくなる、ひとりじゃないんだ、って」といった言葉を覚えています。特段なければ、fuenteに寄稿するのに使うかもしれません。

今年の広告は、ペンで書くということの「良さ」と「重み」を書いているように思います。ふと言葉に出来ないから、メールで気軽に伝えられないから、ペンで書く。そんなことが自分にもあります。帰省の時わざわざ時間を割いてくれて有難う…それぐらいなら手紙で書けるかもしれませんが、その後に続く文章は、気恥ずかしくて、直接言うなどもってのほか、メールで伝えるのも出来ません。それが万年筆と手紙(私の場合は自分の好みの便箋)でできるのですから不思議なものです。

手紙をかくことは、私の万年筆業の中でもものすごく大きなウェイトを占めています。そんな自分だから、ペンでしかかけないことがあることもすごく深くわかります。
「本当に大切なことを伝えたい時、人は、書くのかもしれません」
気軽に色々書いている自分ですが、この「書く」と、先の一文の「書く」は違います。寄稿の「書く」と私信の「書く」の違いでしょうか。多くに触れる「書く」とはまた違った、私信の「書く」。その私信に本当に伝えたい大切な思いを込めるとき、人は真の意味で「手書き」なのです。その手書きこそ(ある意味古臭い議論なのかもしれませんが)心のこもった文字であり、私信としてもらってうれしいものなのだと思います。

パイロットの企業広告はいつも非常に含蓄が深い。毎年、しみじみと見ていますが、この言葉を多くの人が知ることで、少しでも万年筆の良さを知ってくれる人が増えれば、と思います。

蛇足ながら、こういった「広告」「宣伝」の万年筆布教論への応用も後日述べる予定です。明後日より万年筆布教論を再開するので、ぜひ、読んでいただき、ご意見いただければ、と思います。