2010年9月4日土曜日

万年筆布教論2 「販売店の姿勢」

万年筆布教論における販売店の重要性についてです。まずは入手場所から、という観点で書いています。概ねBlog「万年筆坊主の日常」2010年8月22日分に寄せたコメントが基となっています。

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万年筆販売店の状況は正直言って悲惨である、というのが私の持論である。万年筆を販売する側に万年筆への思いが感じられず、あくまで事務的なものであるという感を受ける。文房具は事務用品と同列に語られることが多い故、それを事務的に売ることも一面では真理であろうが、少なくとも万年筆あるいはそれと同じ価格帯のペンなどは事務用品としてではなく趣味としてうられている方が正確な解釈ではないだろうか。4桁を超える高額なペンを事務用品として使うのはせいぜい一部の高級店であろうし、まして利便性に劣る万年筆を事務用品として販売するのは明らかにお門違いである。無論全ての万年筆販売店がこのような状況にあるわけではないが、逆にこのように最悪の万年筆販売店も少なからずある。私がここで書くべきことは我々消費者側がどのような万年筆販売店を選ぶのが良いか、ということであろうし、布教論の姿勢からすれば、どのような店で買ってもらうのが良いかを考察せねばなるまい。

先に記したようなひどい状況の販売店における店員の無知さは甚だしい。それだけならばまだ諦めもつくが、それを補う姿勢すら見えない。生半可な知識で答えるがゆえの情け無さもある。具体例としては、私の言った商品の存在をないものにしてしまう店員などがある。たらい回しの挙句出てきた担当者に私が商品の取り扱いを尋ねるとまた随分と待たされる。この状況において短時間で「素晴らしい一本」に出会えるのは奇跡的状況と言えよう。大手であればという期待もあるが、実は大手の販売店であってもピンキリである。名前は出せないが、東京中心部の店舗ではスムースにやりとりが進むのにそこから1時間足らずのベットタウンの同じ会社の店舗では上記のような状況になった、という会社を知っている。

万年筆布教の入り口は、やはり購入である。万年筆を一本買うことがなければ、万年筆の世界に入るのは難しいのが昨今の事情であろう。過去には祝としてもらった万年筆を大切に使ったという話も少なからず聞くが、現代では祝に万年筆を送るという発想も少なかろうし、もらったところで使う場面に困るというのが落ちである。であれば、万年筆をもらった人に使ってもらうだけの気力を起こさせるか、万年筆を買ってもらうかというのが布教の入り口であるというのに誤りはないと思う。前者については後々詳述するが、ひとまずここでは購入を入り口とするときの販売店の選び方の論を進める。

万年筆販売店で新品を買う、という選択肢を取るとき、選べる販売店はとことんまで限られると言っていいだろう。布教者自身が常連と化しているレベルの店で、なおかつ担当者が少なくとも自店の取扱商品についてスラスラ答えられるようでなければ話にならない。そのような店で担当者立会い可能な時間に購入するのが万年筆販売店選びでの最低条件である。

さらに進めればアフターサービスの点もあるが、これを販売店に期待するのは酷であるというのが現状である。アフターサービスについては布教者が請け負うつもりで、上記の条件を満たす店で買うのが現実的な選択である。

品揃えなどの面での意見もあるだろうが、販売店の姿勢が悪いならばそこで買うべき万年筆は皆無である。商品に対して無頓着であるからとてもではないが商品として出せたような状態にないものでも売っているし、一本のペンを買うのに試し書きや好み以外で時間を取られるのは苦痛以外の何者でもなかろう。服を買うときに好みのものを選び、試着をする。この時に店員は無駄な手間をかけないはずである。商品知識も必要な程度はあって、取り扱いもきちんとできないということはまずあるまい。裾上げのための待ち針を打てない店員がズボンの販売店に存在するだろうか。万年筆販売店ではこの当たり前のことが守られていないのである。吸入方式の説明をまともに出来ないような店員が万年筆を売っていても万年筆を買う苦痛が増えてしまうだけである。結果としてそれは万年筆文化の衰退を招くともいえよう。

さらに厳しく糾弾させてもらえば、吸入方式程度の知識もない店員が万年筆をいいと思っていることはまずない。両用式と回転吸入式が殆どを占める現状で、それらの吸入方法のようなごく単純な部分に苦戦する店員は信用ならないし、そんな店員しかいない場所で実感としての万年筆の推薦を受けられることはない。

まず店員を選ばなければならないというのは情けないところであり、ここを改善することが万年筆文化の隆盛への一歩になることは相違なかろう。ともあれ、布教側としてその点を改善するのは難しい。となれば、布教者のできることは信のおける販売員を選ぶことである。それが万年筆購入における販売店の重要性である。
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かなり厳しいことも書いていますが、現状を見る限りではこれでもいい足りないぐらいです。批判するよりも、一ユーザーとして改善を望んでいます。

2010年9月3日金曜日

風来のシレン5の発売

風来のシレンシリーズは私が最も好きなゲームのシリーズで、「3」こそひどかったものの、他は一通り楽しませてもらっています。操作の熟練性やスピードが要求されず、一手毎にじっくり考えることが重要なゲームで、私には最も合っているゲームだと思います。ゲームの練習は嫌いで、レベル上げも嫌いという私にとって、妙手を考えることでクリアできるというこの種のゲームはよく出来ていると思います。

私の好きなゲームは基本的には「手」です。一手がものを言うゲームです。ある漫画の言葉を借りれば、「神の一手」であり、あらゆる手を検討した上で最上の一手を考えること、そしてそれによってなされる相手の一手を十分に読むこと。気づきにくく難しそうな一手で、しかもそれが相手にとって受け流しようのない好手であれば、それをするほどに楽しいことはありません。

風来のシレン4に対し、5はどうなるか、今から楽しみです。ちょうど12月、自分への誕生日プレゼントに買おうかとも思います。でも、12月は桃太郎電鉄も出る時期。両方をプレイしないといけない状況になることを考えつつ、どちらも「最善の一手」を積み重ねていきたいと思います。

2010年9月2日木曜日

万年筆布教論1 「はじめに」

最終的にはWAGNERに提出する予定ですが、以前より構想してた万年筆布教論の概論的な文書をまずはBlogから始めようと思いました。構想が完全にまとまりきっていないので、まずはBlogに書いてみて、意見を取り入れながら磨き、きちんとした文書にまとめた後、提出しようかと思っています。そんな万年筆布教論、各地で万年筆活動に参加している私の専門的なものでもあります、ぜひご一読ください。

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万年筆研究会WAGNERの活動理念は次のように書かれている。
・万年筆文化の興隆/裾野を広げる
これは2009年12月19日、同年12月30日に、ブログ「万年筆評価の部屋」に書かれていたことである。私はこの理念に従って自分自身の万年筆活動を進めており、現在までに30名ほどに布教をさせていただいた。現在私が行っている万年筆活動の最たるものは布教となり、自らの万年筆を増やすことよりも力を入れている。それは、布教それ自体に楽しさがあり、その中で深まる興隆に大きな意味があるからだと思う。

本文書は、私がこれまでに行ってきた万年筆の布教を元として、万年筆の布教に関する論を展開したものであり、万年筆布教の一つのマニュアルとしての執筆を行うものである。無論この方法が最善である保証はなく、ひとつの例としての紹介であるが、万年筆文化の隆盛を望む一員としてこの論を展開させていただくことにより、隆盛への何かしらの貢献になるのではないかと信ずる。

万年筆に対する思いは人それぞれであり、特に万年筆を好む人々の間ではそれぞれに理念があることと思う。調整を第一とする人、集めることに無常の喜びを感じる人、一本を使い続けるところに心うたれる人…。私は何より、人が万年筆を好むことを好む。その傾向は私のみにとどまらず、幾人もが共有している感情であろう。万年筆を好む人とお会いする機会に恵まれるが、その中で少なからず、他の人が万年筆を買うことを望んでいる人がいる。

その喜びの追求のため、またその喜びを幾度も味わうため、私は多くの布教をしてきて「布教こそ私の専門だ」と豪語するまでになった。それが傲慢な言であることは重々承知であるが、そこまでにのめり込んだ私の文書であれば何らかの貢献にはなるはずである。

本文書の執筆にはその土台となった場があってこそである。そこに関わってくれている人々に深い感謝の意を表する。

2010年9月1日水曜日

筆圧偏重教育を考える

今日から(多数の認識としては)新学期。ですので、私も教育の話を書かせていただきます。

現在万年筆好きの一人としてアチラコチラで活動している自分ですが、小中学校の時は書くのが大嫌いでした。メモを書くのすら面倒だと思っていたような記憶があります。嫌いな時間(の一つ)は書写の時間、嫌いな宿題は書き取り、習字を幼稚園に入る前から習っていましたがその習字も真面目に行ったとは到底言えず…、とどこをどうすれば万年筆好きになるのかわからないような人間でした。そのおかげか、今でも悪筆で、しかもそれを直す気はないという呆れた状態です。友人が「達哉んは文の内容の美しさに重点を置き、俺は字の美しさに重点を置く」と言っていましたが、まさしくそのとおりです(無論そういう彼の字は美しい楷書です)。

じゃあそんな字の汚い奴が書写に関することを書くのはどうなんだ、と言われそうなのですが、一応裏付けがあるので書かせてもらっても大丈夫かと思って書きます。

小学校の頃、私の担任だった先生に「字がきたないのは普通手の力の入れどころがわからないからなのだけど、あなたは手の力自体がないのではないか」と言われました。ここで「字がきたない」を「不器用」に変えたことも言われた覚えがありますが、ともあれ、筆圧がなければ美しい字は書けない、というのがその先生の意見だったようです。そして、小学校でのシャーペン禁止は昔から言われておりますが、これは筆圧が下がるためであると実しやかに囁かれています。

あらゆる人に「筆圧がなければ綺麗な字は書けない」というような認識を与える教育を、私は「筆圧偏重教育」とよんでいますが、これは誤りです。筆圧がある程度高いほうがいいところもあるでしょうが、なければ美しい字は書けないというのは絶対に誤りです。
ひとつには、私の字が「判読不能」から「判読可能」になったのは、筆圧が下がったのとほぼ同じ時期である、というのがあります。万年筆を使い出し、筆圧が下がっていって、字がましになったとかなり多くの人に言われました。さらに、永という字はレタリングなどで字画の多くが入っている基本としてよく知られていますが、私がペンを購入した記念の第1字に書く永を、習字の先生に書いてもらった字ではないかと疑ってかかった人までいました。もちろん、低筆圧です。
逆に、最近は筆圧が下がっていて、濃い字を書くのに苦労するときがあります。濃く書く為に柔らかい芯が欲しいと思う時の方が多いです。濃く美しく書くのは苦手で、ボールペンですら筆圧を欠けていることを意識しています。重量級のペンで重さに任せて書くほうが綺麗な字が書けるほどです。

このように、筆圧をかければ筆圧があれば綺麗な字が書けるというのが必ず成り立つわけではありません。筆圧を書けたときに書けるのは濃い字です。現在の小学校で行われている筆圧偏重教育はそのことを認識していないと思います。そもそも筆圧を無理矢理に上げる必要があるのか、というのが正直な意見です。3B,4Bと柔らかい鉛筆はあるのだから、それらを使えば濃い字は書けるではないか、ボールペンを使うならシャープペンと筆圧は同じぐらいで事足りるだろう、と思います。それなのに筆圧を…という理由でシャープペンを禁ずる筆圧偏重教育は色々な教育問題の中で改善されていく気配がありません。

筆圧をつけることに偏った教育は問題です。これからの社会において、筆記をどう扱うか、それは小学校教育に端を発するのではないでしょうか。決して達筆ではない私ですが、どうしても我慢ならずに書いてみました。

2010年8月31日火曜日

帰省を終えて

私の帰省が終わりました。ちょうど夏の終わりという感じと共に帰省の終わりでした。まだ暑い日は続くようだけど…。

帰省の時には、少ししんどいことがあるのもわかっているのだけれど、それ以上に懐かしい思いが多く、普段の自分の寂しさと帰省の時の友人の温かさへのうれしさに涙してしまうことも少なくありません。白髪も随分増えました。帰省した時の、つかの間人を信じれば、もうしばらく頑張れる、というのが本当にしっくり来る表現です。

普段の生活の周りの人が嫌なのではありません。ですが、私の過去を知っていて、その時と今との違いを見て、また、私のもっと輝いていた時期を思い出させてくれる、それは今の生活の周囲の人に出来る芸当ではありません。帰省の時に、私自身が小さい頃から付き合っている友人だからこそ出来る芸当なのです。

昔は神経質という言葉が全く似合わない人間でした。むしろ、宿題すらほうっておくほどのワルガキで、我が道を行くという感じでしたから、昔からの友人は今の私を見て、相当に辛い思いをしているのではないかと思ってくれているようです。私がくよくよ悩むなどと、ましてや私が死にたいと口にするなどというのは昔からの友人では到底思いもつかないことであり、私はやはりにこやかに笑っているのがふさわしいのだ・・・と。今の私を見て、細かいことにまでしんどくなり、いつも何かに追われているように焦る自分を見て、友人たちは心配とともに優しい言葉をかけてくれて、それに涙します。

三つ児の魂百までで、本質は変わらない、それも言えることですが、それでもその上に乗っている心境は大きく変化しています。細かいことは気にせず突っ走り、笑いながら色々なことをやり、コミュニケーションを密に取る。それが私の本質であると言われるのに、私の今の状況は細かいことを気にしていて、この本質を活かすことができません。おかげで、いやな方の本質が、目立ちたがり屋であるという本質だけが見えてしまい、余計に嫌な人間にみえてしまう…。

突っ走っていくことと目立ちたがり屋であることがうまく相乗して、コミュニケーションをしながら何かに熱中できる人間です。その突っ走っていくことが抑制されてしまっているならば、バランスは崩れ、ただの鼻持ちならない人間になる、それが今の自分です。

そんな私を見て、それを単に嫌がるのではなく、そこにいたるまでの過程を考えて声をかけてくれる、そんな友人たちがいることを幸せだと感じますし、また、そんな友人たちと会うことが今の私の帰省の意義なのだと思います。

帰省は、ただ帰るということではなく、自分自身の根を見つめ直す事の出来る機会なのだと思います。多くの友人が、私のことを心配してくれていて、そんな中で、お前はもう十分大変なのだからと言われて、それでもまだ背負いこんでいる自分がいます。自分から助けてといえる状況は難しい。だから、誰かに助けて欲しいと思うのです。でも、重き荷も坂も、他人には何一つ見えはしない。それを少しでも感じてくれる友人が、荷を持てる状況になくても、その状況にふさわしい言葉をかけてくれる友人が、帰省の折に多くいることに、本当に感謝しています。

中島みゆきさんがしたように、私も今回の帰省のおみやげ言葉、を書いておきます。私が帰省の折にあった友人、会いたかったけど会えなかった友人に、伝わってくれればと思います。
「気にかけてくれて、温かく声をかけてくれて、ありがとう。」

2010年8月30日月曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その4

16位~20位。3/5を紹介したいという、私の好きな曲が並んでいます。

タクシードライバー:ランキング16位。先の「ホームにて」と同じぐらい長く聴いてる中島みゆきの歌です。事情を知らないタクシードライバーが、客である歌い手に対して、気を使っている様子、その苦労がよくわかります。こんなにわかりやすい苦労であればまだしも、そうでなく、もっと分かりにくい苦労がこの世にはあって、その「苦労人と見えて」というべき人が苦労しているように取られない、そして「迷惑だよね」と言われることもなく、ただ苦労を続けている。縁の下の力持ちの精神などといいますが、それでも、人間誰かに認められたいもの、ひとの「苦労」を見なければならないと感じさせてくれる曲です。

この空を飛べたら:ランキング17位。いろいろな解釈があるでしょうが、私はこの曲の難しい解釈や内容よりも、そこに詰まる思いの歴史性に惹かれます。過去から現代にいたるまで、空をとぶのは人類の夢でした。そして、それを実現した飛行機でさえ、その原理は解明されていません。流体力学を少々かじっていますが、それを使って無理やり理解しても、所詮は強引な理解、破綻してやっぱりわからない。そんな歴史性も含めて歌った歌なのではないか、と私は個人的に解釈しています。

帰省:ランキングでは20位ですが、私の中では現状不動のNo.1を誇るみゆきさんの超名曲。友人たちといったカラオケでもまず歌いますし、普段からずっと歌っているためか、採点モードでの最高得点をマークすることもよくある曲です。ふと気がつけば歌っていることもあるような曲です。私は、自分が色々と書く中で、人間のロボット化ということを書いていますが、この「帰省」の街人が正しくロボット化した人間ではないかと思うのです、そして、そういう人間につらいときに、ふと思い出すロボット化していない人間、それがふるさとですが、その人達に出会うことで、つかの間人を信じて再び頑張ろうという、その気持が痛いどころか、涙ぐむどころか、しばらく完全に動けなくなるぐらい、心に染み渡ってきます。ロボット化していない人間に出会って、つかの間人を信じたら、私は半年もがんばれませんが、しばらくの間がんばれます。だから、メールでもブログでもいいから、自分のことを心配してくれている人を始めとして、自分にとってロボット化していない人、故郷の人と話をして、自分を頑張る気にさせているのだと思います。「地上の星」や「時代」が有名な中で、「永久欠番」や「糸」のように壮大な曲がある中で、何よりも自分にしっくり来るかしなのがこの「帰省」です。初めて聞いたときには涙を流さずにはいられなかった曲で、今でも、噛み締めれば噛み締めるほど、自分の気持にしっくり来る歌です。

2010年8月29日日曜日

土産

土産
土地の産物と書いて
「みやげ」と呼ぶ
旅行土産
帰省土産
土産話
いろんな土産があるけれど

土産
その土地を表す
特徴現れる
そんな産物
食べ物にしろ
雑貨にしろ
その土地を表すもの

土産
ふとみたら
一様な顔の
どこでもおなじの
中身まで同じの
いってきましたというお菓子だけ

土産
自分が選ぶとき
本当に土地を理解して
本当に特産を理解して
それを買うことができるのは
自分の故郷に限られる

土産
帰省土産こそが
自分にとって本当に
「土産」なのだと思う
他のものはみやげだけど
決して土産ではなくて
何かの記念のプレゼント

土産
いつも悩むものだけど
自分の生まれ育ったところならば
本に書いてるものではなくて
行ってきましたとかかねばならないものではなくて
ただ
ふっと渡したときに
土地を思い起こせるものを
自分の故郷だからこそ
帰省土産に選びたい