2010年6月19日土曜日

久しぶりの「達哉んペンクリニック」

久しぶりに立つやんペンクリニックを開催しました。と言っても、やってきたのは万年筆マニアの友人ひとりだけでしたが・・・。

やはり、万年筆一本一本は調整にしろ分解洗浄にしろかなり気を使います。終わるとどっと疲れがでるのが特徴で、やっている間には完全に集中しているので気がつかないのですが、その間、やはりかなり集中していることがわかります。

久しぶりの「ペンクリニック」でしたが、なかなかの出来でした。

2010年6月18日金曜日

打ち損じた感触

パソコンでタイピングがある程度速くなってくると、よそ見をしながらも普通に打てるようになり(ブラインドタッチ)、私自身もよそ見をしながら(全然ホームポジションではないのに)打つことができます。よそ見しながら売っていて良くそれだけのスピードが出るなといわれることがありますが、なんとなく、打っている時に間違ったと思ったらそんな感触がしますので、その時だけ打った文字列を見るようにすれば基本的には打てるように思います。ですが、この「打ち損じた感覚」と言うのは一般的にはないようで、私がちょっと変わっているように言われることもあって、若干不思議に思っています。

基本的に、キーのタイピングは場所や打ち方によって感覚が違いますから、一般的に打つ指が決まっていればその感触も大体決まってきます。そうすると、本来あるべき感触と何となく違うように思えたとき、それが「打ち損じた感触」と言うものなのですが、それを感じ取れるのです。タイピングに習熟してくると指が感触を覚えていて、その感触によって打ち損じを判定することができるようになる、と言うのは割合一般的な話だと私は思っているのですが、まれなことなのでしょうか。

頭で文章を思い浮かべたら、後はそれをサーっと打っていって、変換するときだけ画面を見れば後は別のものでも十分とか、本を写すときには膝の上に本を開いてそれを見ながら(つまり下を向いて画面を見ずに)打てばそれでだいたい(OCRかけるよりも速く)打てるとか言うのが私の特徴です。ですが、それはやはり独特なようです。

打ち損じた感触というのは一般的なのか、一般的ではないのか。これがある私にはわかりませんが、ある一定以上の速さの人にそれがあるのか、一度聞いてみたいような気がします。私がこうしてBlogを打っている時のタイピングペースは概ね360type/min。自分では「クルージングモード」と呼んでいるモードで、打ち続けていても手が疲れることなく、また、思考を妨げることなく打ち続けられる最適な速度です。この速度でも間違った感触というのがあるのですから、それより遅くても普通にあるのではないだろうかという気がするのですが、どうなのでしょうか。

もちろん、大急ぎで打っているときはもっと速くて、測定ではAverageが420type/min、Maxが600type/min(と言っても瞬間的)です。こんな時には言うまでもなく打ち損じを感じますが、打ち損じを感じてからその修正に入るまでに数文字打ってしまっているのが常なので、反射的なものではないようです。

打ち損じの感触というのが一般に存在するのかどうか。存在するのであれば、タイピングを教えるときに楽になるように思うのは私だけでしょうか。

2010年6月17日木曜日

卓上製本機

卓上製本機を購入しました。随分と安く(消耗品は高いですが)、それなりの製本ができるので、使ってみて良かったと思います。

ステープルではなかなか多くの枚数を扱うことができません。私が作っている書籍類の枚数となると、私の知る限りの文具店で手に入るステープルでは役に立ちません。

そうなると製本機なのですが、どれぐらいかかるか全く知りませんでした。それが今回買ってみて、意外と安いということを知り、これから活用していきたいと思いました。大量のドキュメントを作成している私ですから(最近PCを開いている一番の理由はTeXです)、ドキュメントを製本してまとめられれば最も綺麗な気がします。私は文具マニアながら、ドキュメント類を2穴パンチでまとめるのは嫌いなので(にた様な連続時系列資料などなら別ですが)、製本機の導入は自分の作成ドキュメントの整理に、華を添えてくれそうです。

2010年6月16日水曜日

うつ病は頑張りすぎたからなる

タイトルは何かのコメントを引用しただけ。ですが、実感としても分かります。

自分はうつ傾向にあるという友人の多くが頑張りすぎであるように思います。自分のうつ傾向が頑張りすぎかどうかといわれると疑問符が残りますが(でも、闘ったことはあり、それが元なのかもしれません)、それでも確かに、うつ病は心の弱さよりもむしろ頑張りすぎと言う点に原因があると思います。

うつ傾向の人は時折自殺を考えます。私は、頑張りすぎてそうなったうつ病なんだから、頑張れと言うのはお門違いであるように考えます。頑張れといろいろな人が言うけれども、うつ傾向の人が本当に欲しいものはそんなものではありません。自分自身の経験でもわかります。頑張れという言葉よりも、自殺をするよりはまだこの世にいる方がましであるという一抹の希望、それが欲しいのです。

頑張って頑張って、もう疲れ果てた・・・そんな状況で、まだ頑張れと言うのはかえってうつ傾向の人を苦しめます。むしろ、うつ傾向の人を苦しめないためにも、頑張れと言うのではなくて、まず話を聞いてあげることが大切なのではないでしょうか。

話を聞いてもらえる相手がいるというだけで、ずいぶんとうつ傾向の人は救われます。そこに「一抹の希望」を見出すわけです。

いろいろな意見があって、自殺はいけないといわれる。でも、鬱病の人にそれをいったとき、その人達はどこに救いを求めることができるのでしょうか。死んでしまった方が生き続けるよりよほど楽だと思っているようなレベルの人に、自殺はいけないと言ったってそれは虚しく響くだけです。自殺はいけないと思うのであれば、それを考える鬱病の人に「自殺が自分にとって損である」事を示すのが一番だと考えています。そしてそれは「頑張らせる」のではなくて、「頑張ったことを聞いてあげる、褒める」ことが重要なのだと思います。

2010年6月15日火曜日

眠気の続く日

どうにもここ最近は眠い日が続いてなりません。

といっても、尋常な眠さではなく、ふと気がつくと倒れているぐらいの、そんな眠さです。眠気と言うのを通り越して、意識朦朧とした状態が続いていると言う方が正確なのかもしれません。何時に眠れるか分からないし、何時に起きられるかも分からないし、起きていても頭が働いているとは限らない。そんな日々を過ごしています。

いろいろと試行錯誤していますが、眠いのはなかなか取れません。上手に睡眠をとることができれば、良いサイクルを作ることができれば・・・と思えてなりません。

2010年6月14日月曜日

私を頼る後輩たち

自分の能力に自信がなければ、自分の人格面が優れているような気もしませんが、何故か私のことを頼ってくる後輩がいます。中途半端な正義感と、後は口やかましいだけの自分に何の魅力があるのか、不思議でなりません。

それでも私のことを頼ってくる後輩がいます。頼る場面は様々ですが、悩み事を話してくれたり、「他の人には内緒ですけど」のような話をしてくれたり、あるいは決して能力が高いわけでもないのに様々な質問をしたりと、人格者でなければ頼りたくないような場面です。けれども、自分が人格者であるはずはなく(人格者ならばもっと容易に裁けてあるだろう事は多数あります)、むしろ人格的にはひどく偏った、好き嫌いのはっきり分かれる人間なのに、そのように頼ってくれる後輩たちのことを嬉しく思いながらも不思議に思っています。

頼ってこられるのは嬉しく思い、また親身に話を聞き、できるだけ力になりたいと思いこそすれ、迷惑に感じることはありません。けれども、頼られることがいつもいつも不思議に思えます。それは、後輩に限らず友人でもそうなのですが、特に後輩の場合に強く感じることです。自分の周りにはもっと気さくであろう、もっと親身であろう先輩が他にいるだろうに、わざわざ私を選ぶところに、不思議さを感じます。

それでも頼られることにきちんとした責任を果たして、親身でありたいと思います。そういった絆が自分をすくってくれた経験が少なからずありますから、そういう絆は本当に大事にせねばと思います。

自分の後輩たちが自分を頼る、その理由はまだ見つかりそうにもないけれども、ひとまず頼られるからには、自分の出来る限りはしよう、とそうここ数日思います。

2010年6月13日日曜日

暑中見舞いの便箋を揃えて

暑中見舞いの便箋・葉書などを大体買いました。全部ではないのですが、足りない分は汎用の便箋や葉書で済ませようかと思っています(というのも、汎用のものが十分に余っているからです。)。

昨年度の残りの分を流用したりもするのですが、それでも枚数としてはものすごい…。120人近くに書くのだから、当然といえば当然なのですが、ちょっとした小山をなしており、早い気もしますが、手をつけていかねばなるまいと思います。

暑中見舞いを出すまで、後大体40日。40日で120通ですから、単純計算、1日3通です。便箋も含めて、一人ひとり心を込めて認めていかねばならないと思います。