2010年6月12日土曜日

暑中見舞いの整理

少し気が早い気もしますが暑中見舞いを送る人の一覧を作り、便箋/葉書等の残り枚数、購入枚数や郵送料金等を計算しました。

暑中見舞いは殆どの人が最早送らないもので、残暑見舞いの方がまだメジャーな感じも受けますが、いずれにせよ、どちらにせよ送るのは稀で、そもそもそれ向きのくじ付きはがきが売られていることすら知らない人もいるようです。

私はそこを逆手にとり、「年賀状はくじ付き!」と思っている人も多いのでくじ付き切手で送るのですが、暑中見舞いについては思う存分、自分の好きな便せんや葉書で送っています。くじ付きでなく普通の切手で送っても、特に何か言われることもなく、また、そもそも暑中見舞いや残暑見舞いが珍しいということもあって、重宝がられるようです。手紙を出すのが好きな私にとって、暑中見舞いと年賀状、この2つは年内の2大イベントです。年始に最も楽しみなのはおせち料理やお年玉、初詣やその出店、お正月らしい遊びやお餅、あるいはおみくじの結果でもなく、何より年賀状です。それと同様に、私が夏に送る暑中見舞いは、色々な人に何か嬉しさがこみあげてきてくれるように、祈って書くものであり、同時に自分がきちんと挨拶をしておきたいという気持ちを込めて書くものでもあります。

各枚数と時間の都合上、随分早い準備になってしまうことが大変申し訳ないのですが、そこはEメールですら暑中見舞いを送らないことが多い昨今、送っているだけで珍しがってもらえるという点で許してもらおうという、ちょっと甘い考えもあります。

それでも、暑中見舞いを書く人を整理してみると随分な人数になります。「この人は書かないでおこう、返事も何もきたことがないから…」などと、人数を減らすのですが、それでも今年は全部で約120通、例年20通ずつ増えていっている気がします。そんなに知り合いが増えているようにも思わないのに、不思議です。

120通ともなれば、送料もなかなか。全部ハガキとしても6000円かかるわけですから、便箋・シーリングワックスなどで凝りに凝る私の暑中見舞いとなれば、送料+便箋/葉書代の合計で2万円近くかかることになります。
そんなにお金をかけて色々な人に手紙を送って、何が楽しいのだ、と最近の人は言います。e-mailで十分ではないかと。でも、手紙には手紙の喜びがあります。手紙の喜びは、メールとはまた違った、格別のものです。その喜びを色々な人に味わってもらいたいから、毎年、手紙を書こうと思えます。

朝日新聞の調査では、年賀状をはがきで書くのは面倒だけれど、もらうのがうれしい、という人が最も多いという結果が出ています。書くのは面倒、というのが多数を占めると同時に、もらうと嬉しい、も多数を占めていました。自分は面倒だから書かないけれど、もらえるならもらおう、と、何か嫌な感じもしますけれども、それでも、自分から送ったものが喜んでもらえるならば、やはり暑中見舞いを今年もじっくり認めようと思います。

2010年6月11日金曜日

Sturm-Liouville固有関数系

関数空間の話をするときに、Sturm-Liouville固有関数系の話をするのはよくわかることなのですが、これを「わかりやすく説明する」となるとなかなか難しいものだ、とノートをドキュメント化しているときに気付きました。

実解析の内容を論ずる方向に行くならばいいのですが、そうではなく、実用としてFourier級数やLegendre多項式、Lagguerre多項式などで展開をする場合、直交性を論ずる場合など、Sturm-Liouville固有関数系は難解な部分になります。

Vectorの展開と同様に関数も展開可能である、ととらえたときに、もちろん関数にも展開するための正規直交基底があり、それを求めることが問題だ、という風にできます。関数を展開するための正規直交基底を我々はどのようにして得られるのか?ということです。

無論、冪級数は直ちに思いつく手段です。これが線型独立なのは自明ですから、Taylor級数展開が可能なわけです。ですが、他にはどんな方法がある、どんな関数系を用いればよいか?と聞かれたときに、Taylor,Laurent,Fourier級数以外、ぱっと思いつくのは難しいのではないか、というのが「感覚」です。それを数学的に求めるためにSturm-Liouville方程式を用いるのだ、という書き方をすれば、少しはわかりやすいのかもしれません。

では、Sturm-Liouville方程式を用いて得た正規直交基底が必ずしも使いやすいのか、実用的なのか?と聞かれると、そこで答えに窮します。実用的なものには名前がついているわけですが、では名前がついていなければ非実用的かというとそうとも言い切れないように思います。数学の「感覚」レベルで話をされたとき、「わざわざSturm-Liouville方程式の解として何種類もの基底を導く必要はないだろう」といわれると、困ってしまいます。

Sturm-Liouville方程式を用いれば、システマティックに固有関数展開が可能である、では答えになりません。システマティックにする必要があるのか?と聞かれるからです。システマティックにするのが数学という学問の一面ですから、数学的にはその必要ありですが、はたしてその他の、実用の人向けの数学でそれが必要かと問われると考え込んでしまいます。

道具の原理を理解する、という観点で、Sturm-Liouville方程式を見ればそれは重要なことなのかもしれないということに気付きました。でも、その原理の理解が、道具とどう結びつくか、うまく説明できる自信がない。自分がSturm-Liouville固有関数系も含めて、純粋数学に比べて物理数学でやや苦手意識を覚えるのは、私がより一般論を目指そうとする、より基本を目指そうとする、basicな人間だからかもしれません。

2010年6月10日木曜日

数学屋さんのアルゴリズム

友人と、Supercon2010の予選問題に、参加資格はないのですが、昔参加したこともあって、興味半分、後輩達への対抗心半分でチャレンジしています。そんなアルゴリズムを議論しているときに友人に言われたのが、達哉んのアルゴリズムは数学屋のアルゴリズムだ、ということです。

この予選問題は、解法によって、「それ単体だけで本が書ける」という程度に研究された数学のある分野の内容に帰着します。小学生のころから興味があった分野なので、ある程度造詣も深く、私自身楽しんで取り組んでいますが、その問題について詳しく知っているがためにマニアックな定理をどんどん用いたアルゴリズムを立ててしまいます。

自身はその分野の一通りの定理について学習しましたから、定理をばしばし書いても「そんな定理があったなぁ」という程度なのですが、友人からしてみればそういうわけにはいきません。見も知らぬ定理がどんどん出てくるのです、当然証明してくれとなりますが、数が多いですからそう簡単にはいかないわけです。そうすると、アルゴリズムの説明といいながら「とりあえず定理を列記して」「その定理を用いてどうプログラムにするか書いて」「証明は別添」という形になるわけです。

こんなところを評して、友人は「数学屋さんのアルゴリズム」といったのでしょうが、これにより確かに計算速度が速くなるのです。今年に限らない話ですが、数学やアルゴリズムについての畑が広いほどSuperconは有利なように思えます。事実、私がそれなりの成績を残した回は、偏微分の考え方を用いたアルゴリズムでした。

そんなSuperconですが、数学的知識に劣るからと言って後輩達が負けるとは限りません。私が経験したような素晴らしい経験を後輩たちにもしてほしいと思っていますし、本選出場できればそれはものすごく永い財産になること疑いないと思うからです。

Superconといえば、Superconメーリングリストというのが昔ありましたが、あれは今一体どうなったんでしょうか?どなたか、ご存じの方、お教えくだされば幸いです。

2010年6月9日水曜日

本当に強い桃鉄プレイヤー

友人や後輩とよくやるゲームの一つが桃鉄です。大抵は相手側からの誘いといえど、誘いがあればほぼ確実に参加しています。ソフトを持っているのは自分ですし、序でにお茶も淹れますから、桃鉄をやりたい相手側としては多少遠慮したプレイになってしまうのかもしれませんが、それでもとことんまで負かしてしまうことが多いのはちょっと気の毒です。といっても、あからさまに手を抜くのは相手が普通嫌がりますから、相手のことを考えた程度の「縛りプレイ」をすることにしています。相手が強ければある程度戦略を張り巡らせたスタイルでプレイしますし、相手が不慣れであるならば妨害系カードをあまり使わず、あまり干渉せずに利益をとっていくスタイルにします。コンピューターがいるかどうかなども考えて、相手が楽しめるプレイを心がけています。

そんなとき、ふと思い出したのが、さくま式人生ゲームや桃鉄の攻略本にさくまあきら氏が書いていたコメントを思い出しました。「本当に強いプレイヤーは戦う相手に対して思いやりを持ったプレイをするものだ」というコメントです。今、相手に合わせたプレイスタイルを選択する自分がそれに少し近づいてきているのではないか、と思うのは、傲慢なのかもしれませんが、けれども、どこまでなら相手に許されるか、どこまでなら卑怯と取られないか、どこまでなら楽しんでもらえるか、考える桃鉄というのは本当に強い人でないとできないと思います。

接待プレイのような、相手に勝たせる桃鉄なら誰だってできますし、そもそもそういうプレイのために最弱のコンピュータがいます。そうではなく、相手とやっていて楽しい桃鉄、自分も楽しめる桃鉄、とことんまでやっつけきらない桃鉄というのをできるのが本当に強いプレイヤーなんだと思います。

私は、父や母と小さいころから桃鉄をしてきました。その頃の両親は、手抜きすることなく闘っていて、一方的に負けていました。今、自分が「相手を考えてプレイする立場」になって、今度桃鉄をやるときは、小さいころから一度も勝ったことのない両親に勝てるのではないか、とそう思えてきます。だからこそ、桃鉄をやるときには、できるだけ相手のことを考えてプレイしていくことで、自分の実力がつくのではないかと、そう思いました。

2010年6月8日火曜日

フエンテ50号の原稿完成

このブログに移ってから意見めいた事ばかり書いており、少々重苦しい内容になっているように思えてきました。幸い、意見めいたことも今日はないので、フエンテの原稿完成報告でも…と思います。

昔から話すことが好きでしたので、自分の文章の下手なことは承知の上で各地に文章を書かせていただいております。新聞投稿もかつてはしておりましたし、メールマガジンを発行していた時もありました。最近はブログや、万年筆関連の方面での各種の投稿(主としてフエンテとpen and message「雑記から」)、それに加えて、自分が勉強したことをまとめたドキュメント作成などでその「文章を書きたい」という欲求を満たしています。もちろん、その多くは読んでもらいたいと思って書くわけですが、その反面、自己満足に終わる部分も多くあります。

フエンテ50号の原稿は、別冊に載せる分を、自分の悪筆をさらすこと承知で書き(絵などはその下手さゆえ一切書きません)、それ以外に4本の原稿を書きました。そのうち1本は、中谷会長に50号の別冊企画を知らされた今年のペントレより前に書きあげていたもので、別冊に載せる内容とかぶってしまいましたが、せっかくなので寄稿することにしました。

その他には、連載物と、いつも通り単発の論文です。前回までは原稿用紙をつかっていたのですが、ある方面から原稿ノートを2冊もらったので、それに書き、それをコピーして送ることにしました。満寿屋やライフの原稿用紙がちょうど尽きるころにもらったので、しばらくはその2冊のノートでしのぐことになりそうです。書き味も悪くないので、原稿用紙としてきちんと機能してくれます。

そんな原稿用紙を今書いていて、ふと思ったのは、原稿用紙自体に関してはまだほとんど言及したことがない、ということです。まだあまり多くの種類の原稿用紙を使っていない(購入できる最小単位が使用量に対して大きいため)ので、確かに言及する機会もなかったのですが、今回のノートも合わせると、原稿用紙も5種類眼なので、そろそろ好みの原稿用紙はどれか、決めてしまいたいところです。

それはともかく、フエンテ50号、また拙文が載るわけですが、お付き合いいただいている方には本当に感謝しています。三つ子の魂百まで、と申します通り、自分の「話好き」「目立ちたがり」な本性はずっと続くに違いありません。性分というのはそう変えられるものではないので、これからも拙文を各地で晒させていただくことになるに違いありませんが、よろしければ、皆さまにお付き合い願えれば、と、そう思いながら、いつもと同じように、原稿を投函しました。

50号は特別という思いを持って書いた原稿と、50号でも普段のフエンテと同じようにという思いを持って書いた原稿があります。記念すべきものであるから、平常心を失わない原稿も必要だと、そう思って、自分らしい原稿を書きました。クラウドコンピューティングにフエンテの絡んだ、独特の内容の原稿が50号の寄稿の中にあり、それが最も、平常心で書けた「記念すべき者の中の日常」になったと思います。内容も技巧も浅い文章だけれども、お付き合い願えることを祈りつつ、3~4か月ほど先になるだろう、フエンテ50号の届く日を心待ちにしてなりません。

2010年6月7日月曜日

ばれへんかったら、ええんや

小学校の頃、道徳の授業の教科書に出てきた、このタイトルと同じ文を持つ文章が、妙に印象に残っています。色々と悪事を働き、このタイトル通り「ばれへんかったらええんや」と過ごしていた小学校時代でしたから、これが心に残っているのも、当然といえば当然なのかもしれません。


ばれへんかったら、ええんや。その一言が悪事に結びつくのはだれしもが容易に想像できるところでしょう。ばれなければ何をしてもいい、という、そんな極論だって「ばれへんかったらええんや」からは容易に導かれます。

この文章を小学校の時に扱ったとき、普段の科目の授業をほとんど聞いていなかった私ですが、「あなたは、この意見のことをどう思いますか」と問われて、答えに詰まりました。今、私自身の答えは、もちろんNOですが、しかし、ばれへんかったらええんや、ということが本当に意味することを考えることが多くなりました。

確かに、しかるべき立場の人に知られなければ自分自身が処罰を受けることはなく、悪事は成立してしまいます。一切の痕跡のない「完全犯罪」ならば、その行為を行った人間は処罰を被ることはありません。当人にとってはまさしく「ばれへんかったらええんや」です。

それに対して反論できる強力な手段はありません。論駁できるだけの当人への利益はありません。そもそも利己主義である意見が「ばれへんかったらええんや」ですから、その意見を否定するならば、「ばれへんかったらええんや」以上の当人への利益を論理的に示す必要があります。そう言った意見の人は大抵狡いので、ばれない確率の方が高く、全体としての期待値はプラスになります。

その意見を持った人を相手にするにはどうすればいいのか。処罰を重くして全体の期待値をできるだけマイナスにすることがよい、と「プログラマのための論理パズル」には書いてありました。ですが、それにも限界がありますし、「ばれへんかったらええんや」が大きな犯罪、それこそ復讐等に用いられた場合、処罰と天びんにかけてでもなお実行を誘発してしまいかねません。

ならばどうすればいいのか、といえば、これはもう、それぞれの良心に任せるしかないと思うのです。けれども、実際のところ、そんな良心を持ち合わせているような人は小数派のような気がします。

もっとも成績の良いといわれる集団や恵まれた環境にいる集団にいるほど、この「ばれへんかったらええんや」はまかり通っているように思います。私の中学時代の先輩と話をしていた時に聞いた話ですが、その先輩の通っていた「坊っちゃん校」ではまさしくそう言った状況で、ばれへんかったら…とばかりに軽犯罪を繰り返すようなものが多かったと聞きます。高校時代の後輩も、自分の行っている大学の状況がそんなものであったと言っており、自身もそうなりかかっているようにさえ見えました(無論、しかりつけたのはいうまでもありません。)。

学校教育を論じている賢い方々もマスコミも、成績をはじめとして学業面の教育を非常に気にしています。そのことについて、私は色々口をはさむ気はありませんが、けれども、本当の意味での道徳教育について、いじめなどが横行しているにもかかわらず、論じられないというのは不思議で仕方ありません。

学校という機関は学業だけの機関ではないはずです。学業だけの機関ならばいくらでもあるからです。公教育の機関として学校があり、その学校でとられている道徳の時間は週に1度だけ、それもつぶれることさえある…。これでは、「ばれへんかったらええんや」の文章だって活きることはありません。

確かに学業は大事だと思います。けれども、あちこちの「お偉方」を含め、成績のいい人たちが「ばれへんかったらええんや」とばかりの行動をとっているのを見るにつけ聞くにつけ、小学校をはじめとした公教育機関での道徳教育の重要性がより増しているように感じます。

本来、ばれへんかったらええんや、という考えの基となる良心は、友人と遊ぶときにルールを守るなどの、とても小さなことから築かれるものです。ゆとり教育云々を言っていた時代もあって、それに対する反省もあるかも知れず、学力についてよりしっかりと学ぶのも大切なことですが、しかしながら、"All work and no play makes Jack a dull boy!"、「遊ばずにただ勤勉に働いた(勉強した)だけであったがために、ジャックはおろかな少年となってしまった」、では、本末転倒極まりないものだと思います。

よく学び、よく遊べ。その一言は教育の上での至言だと思います。そして、それが実行されていない、ただ学んできただけの、成績の良い愚者を見て、自分が「よく学びよく遊んで」育ってきたことに感謝せずには居られませんし、そういった人たちに強い怒りと同時に憐れみを覚えます。

教育を論ずる方々が色々と言っているけれども、たとえどんなに成績の良い人間を育てても、たとえどんなに力の強い人間を育てても、それが誤った方向に使われるようでは、結局意味のないことになりはしないでしょうか。良心という財産を得られないそんな学校教育なら、私はNo,Thank youですし、自分が子供を通わせる立場になったならば、絶対に「良心」を育てる親でありたいと思います。

2010年6月6日日曜日

愚痴の効用

愚痴というのは字面からして明らかに愚かな行為なのですが、しかしながら、「人間たまには馬鹿が必要だ」という言葉があるとおり、本当の意味で必要な馬鹿があるとすれば、その馬鹿の一つは愚痴なのではないかと思います。

生きている人間はだれしも辛い状況があります。それがたまりにたまって、やがて人によっては、それが原因となっていっそ死んでしまおうなどと考えてしまう人もいます。そういう人の話を聞くこと、それは人の命を救う尊い行為です。
人間がその心の辛さによって死のうという状況であるとき、多かれ少なかれ、孤独という概念があるはずです。その孤独という概念を取り払うためには、心の内を話すことが必要で、それは一般に愚痴としてとらえられるような、文句が入ったものであることが多いのです。

愚痴は悪いものである、という人がいます。確かに愚痴っぽい人が空かれるようには思いませんし、愚痴を色々いっていても何も進展しないような気もします。しかし、人に何かを話すことで、自分の心の整理がついたり、あるいは自分が何か救われたような気になって、自体は変わらなくとも心がすっと楽になることがあります。

私は以前の記事にも書いている通り「闘って」いました。その時に、本当に死んでしまいたいと思うほど辛かった時、私を救ってくれたのは、殆ど夜通しにもかかわらず、話を聞いてくれた友人や、あるいは、遠距離にいるにもかかわらず、メールや手紙で私のことを気にかけてくれた友人・先輩・後輩・身内です。

愚痴というのは、客観的に見て「事態の進展」をもたらすことはないでしょう。しかし、自分の心の中に何らかの進展をもたらすことは十分にありうるものです。だから、愚痴を字面通り嫌い続けるのではなく、愚痴も「必要な馬鹿」と思って、聞いてあげるのも大切なことではないでしょうか。それが信頼関係を築くこともあるでしょうし、それに、愚痴を言うことが、何かのルールに違反するなんて、弱音を吐くことが、本音を言うことが何かのルールに違反するなんて、そんな冷たい世の中に、まだ今の世の中はなっていないはずだから…。