2011年1月22日土曜日

とどのつまり同じ事 未成年飲酒と未成年喫煙

まずは知恵袋のこのページを
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041785495
ベストアンサーの方の回答、いいですね。

先日、友人に「達哉んは一部の法律違反に特に厳しい、異常に厳しい」と言われたのが大変心外だったので、このような記事を書く事にしました。要するに法律を破っているのは一緒だということです。

スピード違反について逐一言うのはやめました。車内で喧嘩が起こって、かえってドライバーの集中を乱して危ないから。でも、スピード違反は昔から嫌いです。幼い頃何度父と「なぜスピードを守らないのか」と喧嘩したことか。
未成年飲酒について逐一言うのはやめました。言ったところで風当たりが強くなるばかりだから。でも、未成年飲酒は昔から嫌いです。未成年にちょっと飲めとすすめる父と、何度喧嘩したことか。
未成年喫煙について逐一言ったことはありません。自分の目の届く範囲でそんな事をする愚物はいないから。でも、実際にいたらとことんまで糾弾するでしょう。

人間があらゆる法を完全に遵守して生きることができるかと言われれば、それは容易なことではないでしょう。色々言う私だって、法を破ったことも少なからずあります。それについて批判するなら大いにすればいいと思います。罰するならば罰すればいいと思います。裁量の余地など必要ありません、極刑でも結構です。悪いことをしたならそれを受け入れるのが当然、秩序を破ったのであればそれについて怒られるのが当然。

その観点では未成年飲酒も未成年喫煙も、あるいはスピード違反も同じ事です。私が未成年飲酒にとりわけきついように見えるとすれば、それは周囲の人に飲酒をする人が多く、先の回答の通り「お酒を飲む人は飲酒に甘い」からそう見えるだけです。単に相対的に厳しく見えるだけです。

2年ほど前、未成年飲酒にきついことで孤立しました。今でもその名残で風当たりは決して弱くありません。それは単に人口比の問題であると、最近になって気づきました。未成年飲酒ではなく、未成年喫煙ばかり言っていたら、もう少し風当たりは弱くなっていたのかもしれません。未成年飲酒ではなく、万引きの話をしていれば、もっと風当たりは弱くなっていたのかもしれません。

結論はどれも同じ事です。決まりごとを守っていないのです。その倫理観の成長について、上の方が回答されていましたが、たしかにその通りですね。私だって時間はギリギリ、遅れてしまう時もあるというような人間ですが、決まりを守らない、でも付き合いのある人は概ね皆、私よりも遥かに遅刻率が高く、当然無連絡です。

法律を破ったことについて色々と言い訳をするのは勝手です。決まりを守らなかったことについて、色々と理由をつけて逃げようとするのは勝手です。でも、一言だけ言わせてもらうならば
「結局あなたは法律を破ったのだろう?」
ということです。

未成年飲酒問題について色々というのは、自分の友人(と思っている人々)の中にもそういう愚かしいことをしている人が少なからずいたからです。未成年喫煙やスピード違反は単に人数が少ないだけの話です。

もしも上記のような軽犯罪、あるいはあらゆる法違反について、何か自己弁護するならば勝手にすればいいと思います。ただ
「貴方は法律を破った。この命題が真であることについて、誤りがあるなら言ってみろ」
とだけ返します。自己弁護する人が偽であると切り返せるはずがありませんから。

自分がそのような愚かしい行為をしてしまったら(法律以外の決まりを含む)いつも猛省していますし、罰せられるなら罰を受け入れる態度でいます。それでもまだ、自己弁護で法律以外の根拠を求めるならば(法律を破る、決まりを破るということだけでも、十分に愚かしいことですが)、信頼を裏切るということでしょうか。

10年ちょっと前の私は愚かでした。その愚かさたるや、筆舌に尽くし難いほどでした。そんな時に、母や祖母、あるいは先に書いた父ですら、どれほど悲しんだことか。私が嘘をついていると疑い、挙句学校に行く前に警察に連れていくと父が言い出したことさえありました(そういう自分はどうなんだ、と今は思いますが)。その悲しみようを見ていて、今、失敗することがあったとしても、意図的に法律を破ることは絶対にできません。私には、そんな行為をしようと思い立ってしまったときに、ひどく悲しむ肉親の姿が経験として映るからです。

大変厳しい意見ですが、意図的に法律を破る愚者は、人間としての心を失っているか、あるいはそれを悲しむ人々を思いやる心(もしくは余裕)を失っているかどちらかです。冷静に考えれば、自分の愛する人々の嘆く姿を思い描くことができると思います。そんな嘆く姿を思い描けるような人間などいない、というのであれば、その人はきっと寒いでしょうね、極寒の無法者ばかりの荒れ地に生きているのでしょうね。

もしも自分が親になったとき、少なくとも私は、自分の子供たちに「意図的に決まりを破りなさい」とは教えませんし、それの延長線たる未成年飲酒なども勧めたくない(し、すすめることも絶対にしないつもりです)。そして、そう教えても意図的に破るようならば、やはり悲しむでしょう。

「自分が親になって、子供が出来たとき、貴方は子供に、意図的に決まりを破るように教えるのですか。もし決まりを破らないよう教えるとして、それが破られたらどうですか。」…どんな法律だって、決まりは決まりだから、守らねばならないと思います。だから、意図的に破る人にいいたいのが、このフレーズなのです。

悲しいだろうね、親はきっと
寒いだろうね、信頼を失えば
それでも破るというならば
勝手に破るがいい
破ったあとにどんな罰があっても避けるな
それから逃げようとしたって
ただひとこと
「破ったことには違いない」といってやるから

2011年1月21日金曜日

日本語検定に挑戦しようか

ずいぶん前から興味を持っていたのですが、日本語検定の2級に挑戦してみようと思い立ち、次の試験を受けることにしました。まだしばらく先なので、ひとまず過去問題をといてみただけですが、2〜3問足りない程度の水準でしたので勉強していく試験としては妥当だという結論にいたり、2級にしたのです。

どの分野でも6割以上の得点率は確保しましたが、その中で比較的難しかったのが四字熟語。漢字を書くのは苦手だ、と思っていましたが、四字熟語関連の問題でわからないものが並んだのはこの問題が初めてでした。いったいどれぐらい難しいのだろう、と漢検2級を持っている後輩に聞いてみると、彼もわからないということ。私が苦手だからと敬遠している漢検2級でもわからないのか、と思い、正直びっくりでした。幸い、他の分野はわからないことが有っても1〜2箇所であり、敬語に至っては満点だったので、四字熟語を重点的に勉強しようということにしました。

対策書籍はまだ問題集しか持っていませんが、幸い横には「日本語を使いこなす言葉の実用辞典」や「かけなくてもいいけど、読みたい漢字」などの本があるので、そのあたりから読んでみようかと思っています。広範な日本語知識を得たいと常日頃おもっているので、これを機会にそれで勉強すればいいと思っています。

2011年1月20日木曜日

紹介:Paper NAPKIN with Sketch of Fountain Pens

万年筆関連の書籍も何冊かありますが、非常に独創的な観点なのがこの
”Paper NAPKIN with Sketch of Fountain Pens”
です。

ペーパーナプキンを使って、ある部分を共有した二つの絵を書き、その一方は必ず万年筆、という面白い書籍です。見返しはキャップをした状態と開けた状態の絵が見事に出来ていました。わたしの持っているペンも一本・・・

この本は万年筆の連想画集、とでもいいましょうか、面白い連想がたくさんあります。ペリカーノジュニアがスクール水着に変わるのですが、どちらも学校という感じがして面白いですね。

昨年買った万年筆関連書籍で、一番パラパラ読めた本でした。イチオシです。

2011年1月19日水曜日

フリーゲームハンティング その第1回 ~ハンティングとは~

今年は大抵の連載を日の1の位で決めています。そのほうがたいてい好都合で、これに適宜の日にちの振替さえ行えば、ブログの運営も楽ですし、また、特定の企画を求めてくる人にも読んでもらいやすいと思っています。

ですが、このフリーゲームハンティングという内容だけは、どうにも毎週書くことができません。過去にプレイしたフリーゲームを含めても、10日に一つのゲームをクリアして書くなんていうのは物理的に不可能です。短いフリーゲームもあります。クリアという概念がなく、ただ遊べるだけのフリーゲームも少なくありません。と言っても、そんな紹介ばかりでも意味が無い・・・。

でも、せっかくなので、色々と紹介してみたいのです。ひとまず今回は、私のフリーゲームハンティングの手法…もう10年近く同じ手法を使っていますが…を紹介したいと思います。

フリーゲームハンティングというのは、フリーゲーム=無料公開されているパソコンゲームをプレイして、自分にとって面白いソフトを揃えていくという正しく「狩り」です。一般に面白いと言われるゲームだからといって自分にあうとも限りませんし、逆もまた真です。

それなら私が紹介したところで…?と思われるかもしれませんが、フリーゲームハンティングは相手が見えない場合が多いですし、全てプレイしてからの判断というのでは時間がかかります。本を立ち読みで選ぶように、フリーゲームもお試しプレイで選ぶことで、比較的簡単に面白いゲームを選べます。

その面白いゲームを選ぶための資料として、私はこのブログで時折、フリーゲームの記事を書こうと思っています。

フリーゲームのポイントとしては、比較的多くのゲームが載っているサイトを幾つか探して、面白そうなものをピックアップしてDL,あとはダメと思ったものをどんどん消していくのが簡単な手法です。ダメと思うのは幾つかありますが
・単純に動作がもたつく
・30分~1時間プレイして、つまらないと感じる
・その他、ずっとプレイするに至らないと感じる点がある
など、主観的な理由で大丈夫です。

フリーゲームのDL先は数多くありますが、私がよく使うのは
・夢現:http://freegame.on.arena.ne.jp/
・ふりーむ:http://www.freem.ne.jp/
・Vector:http://www.vector.co.jp/
あたりです。とはいえ、非常に多方面から情報を集めているので、この3サイトに限られるわけではなく、この3サイト以外でも情報を手に入れてはゲームをプレイしています。本ブログでの紹介、楽しみになさってください。

<参考:私のハンター歴>
私は今まででおよそ10年間にわたり、フリーゲームハントをしています。Programmingを始める1年ぐらい前からで、HSPに出会ってプログラミングを始めるまでの間はほぼフリーゲームハントばかりでした。1回のハントで2~3本遊び、だいたい2ヶ月弱というペースでしたが、C言語プログラミングを始めてからはそちらに傾倒していきました。それから4~5年はハンティングは少なめで、気分が乗ったときに1~2本するぐらいでした。その後、パソコン環境として専有パソコンができたここ2~3年は気分の乗ったときのハンティング量が増えました。とはいえ、プログラミングしながらなので、一時期ほど多くのフリーゲームをプレイしているわけではありません。

2011年1月18日火曜日

「されない」身

愛されたがりは罪作り、と「今日以来」では歌われていますが、それじゃあ愛します!と言い切って、寂しさをなくすことができるのだろうかと思います。

お茶会を開きます。しかし、それの招待メールを送ったところで来てくれる人は大変少ないのです。
何かの会合をするとメールを送ります。参加の確認をとっても、メールの返信なんて来やしません。

能動的に誘いをかけても、ほとんど来てくれない。そう思って、自分のところに来た誘いを振り返ると、私のところに誘いなんてちっともきていないことがわかります。

ゲームをしよう、と抽象的な誘いはあっても、実行するときに誘うのは私。
帰省の時に遊ぼうと言っても、いつどこで待ち合わせて何をするか、その相談でメールをはじめに送るのは私。
いつか食事に行こうと思っても、日にちを決めて交渉しだすのは私。
誘われる・持ちかけられる・話しかけられるなんてことは、全くないに近いのです。自分の誘う回数に比べれば、本当に、あまりに少なくて、受動が嫌いなのではなく、受動がないということに気づきます。

誘われることなく、誘っても無視される。そんなに寒い日々で、私は何に温かみをかんじろというのでしょうか。自分から話しかけることはあっても、自分に話しかけてくれる人は殆どいなくて…。もしも私が、一日誰にも話しかけないように、誰かから話しかけられなければ返事をしないように心がけて生活すれば、私は一言も発さずに一日を終えるのではないかと思います。

されない日々を送っていれば、されない身であれば、孤独感は自ずと生まれてきます。

私は誰からも誘われない。
私は誰からも話しかけられない。
私は誰からも必要とされていない。

そう思うのです。

幾百幾千の言葉をもって必要性を説かれたとしても、普段の態度はそうはいっていない。誘われもせず、話しかけられもしない人間が、どうして必要と言われて受け入れられようか。

あからさまな憎しみよりも、無関心のほうがよほど相手に深い傷を与える。ハリーポッターの物語でダンブルドアが言っていた言葉であり、あちこちで言われていることですが、まさにそのとおりだと思います。色々なことで「されない」身であることが、辛いのです。

気づかないふりをして生きていても、やがてそれは気づくような大きいものになってしまいます。そして、誰からも必要とされていないということを思ってしまいますし、自分が誘いをかけることへの恐怖感すら出てきます。「私は誘っているけれど、それを人は疎ましく思っているのではないだろうか」と。

二隻の船を聞き、歌姫を聞く中で、寂しさというものが如何に逃れがたいものかを実感します。そんな中で「されない」身である自分は、ただずっと孤独に居るしかないのでしょうか。誰からも誘われない自分が、誰からか必要とされる日は来るのでしょうか。

もしも今、私が何かの事故に遭い、死んでしまったら、その告別式に、儀礼的以上の意味を持って、別れの意を持ってやってくる参列者は、一体幾人でしょうか。ほんの一握りではないだろうか…と思うのです。

絆を…そう言って色々なアプローチをかけています。でも、それが多くの人にとってただ疎ましいだけのものだったならば。それを否定できず、誘われないままに寒い日を過ごす自分がいます。誰からも誘われず、誰からも話しかけられない。必要とされていないことを感じるのに絶好の機会は、今日味わう必要はなく、明日でも明後日でも、しばらく味わえる。…そんな今が嫌で、でもそれは自分ではどうにもできないから、今日も泣き寝入りです。

2011年1月17日月曜日

16年を経た今日に

もしも神戸っ子であると言うのであれば、絶対に今日という日を忘れてはならないし、1.17から自然に連想されなければならない、今日という日。経験していないとしても、神戸っ子である、神戸出身であるというのであれば、絶対に忘れてはならない。16年前起こったその災害は、少なからず傷跡を残しましたし、現在でも復興なったと言い切れない部分があります。

その時私は5歳であり、遠足かなにかの行事前で、運悪く風邪を引いて休もうかどうかと親が心配しておりました。その心配はマイナスの意味で杞憂となりました。当時幼稚園に通っておりましたが、平常通りに幼稚園に通えるわけがなく、その行事は中止になりました。私の幼稚園の時のアルバムを見ても、年中組の1月から3月はほとんど写真がありません。あれほど大きな災害の渦中にいて、私の知り合いに生命レベルの被害こそなかったものの、逆にそれが渦中にいながらにして客観性をもつ視点となっています。自己の体験という主観と、被害を客観的に見られる程度の被害ですんだこと、それが今の私の視点をもたらしています。

兵庫県南部地震、災害の名前で言うなら阪神・淡路大震災。それを直接に体験した人は、もう義務教育を卒業しました。震災を直に体験して記憶としてもっている人は、もう成人した人ばかりではないでしょうか。高校の現役生と話す機会が有って、その事を話すと、やはり覚えていないということ。当たり前のことで、何も恥に思うことはないと思います。でも、その事を伝えていかなければならないし、ボランティア元年となったあの年のあの日に、いったい何が起こったのか、何が大きな課題だったのかを絶対に後世に伝えていかねばならないと思っています。それは私にとっての義務であり、同時に、広く友人たちにも呼びかけたいことです。

震災の記憶が風化していくのは仕方がないことであり、私とて、その記憶を完全な状態で保っているわけではありません。記憶の風化よりも、寧ろ、その時に我々人類、とりわけ神戸っ子が学んだことを我々は後世に伝えていかなければならないと思います。学んだことは、その対処法だけではなく、人々の気持ちも含めてです。

16年がたった今でも、私は震災の瞬間の気持ちを覚えています。そして、神戸にきた友人を案内するときは、たとえその人の行きたいところからどんなに外れていようとも、絶対にメモリアルパークに連れていく。私ができることはほんの僅かだけれども、その僅かからでもやってみようと思うのです。

神戸に縁のある人は、自分たちの子供に、孫に神戸の話として、まず震災を伝えて欲しいと思います。モロゾフの話でも、ケミカルシューズの話でも、アシックスの話でも、ポートアイランドの話でも、灘高校の話でもなく、震災の話をはじめにして欲しい。そう思うほど、神戸の震災は大きな出来事でした。今私が持っている神戸学検定のテキストにも、阪神淡路大震災はそれだけで一章を形成しています。私は神戸出身である、と自分の出身を言いますが、そういうからには必ず、震災のことを伝える覚悟を持って、神戸出身であるということにしています。

私がこのブログで今年伝えるのは3つの歌です。震災が終わったあとによく流れて、大人から子供へと伝わっている歌です。黙祷を捧げ、今晩はこの3曲を聞きます。涙を吹きつつ、歌うかもしれません。阪神淡路大震災という、決して忘れてはならない震災を伝えるために…。

・時代:中島みゆきの曲ですが、とにかくよく流れたと聞いています。今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ、というフレーズに、神戸の復興を願う気持ちが込められているのでは、とも思います。日本のスタンダードNo.とも言える曲ですが、震災のことを想いながら聞くと、ぐっと違って聞こえます。
・幸せ運べるように:Coolie high hermonyがCDを出していますが、震災の後に、復興を込めて作られた歌です。毎年1月17日に行われる震災学習では小学校・中学校で必ず歌われると言ってもいいほどです。バカにしているような人もいましたが、今、もう一度震災のことを思いながら聴くとその出だしの部分から震えが止まらないほどです。知らない方もいるかと思いますが、youtubeでも聞くことができます。以前は港島中学校の合唱版がDLできたのですが、今は見当たらないのが残念です。震災を伝える上で絶対に欠かせない曲です。ルミナリエでも追悼式でも歌われる、震災の復興のテーマソングとも言える曲ですが神戸が好きならば必聴の曲だと思います。今もこの曲を聞いて半泣きの私がいます。
・おそすぎないうちに:小・中と卒業式の時に歌った歌で、卒業式で歌った歌のうち唯一現在も歌える歌です。歌詞を聞けば、それを覚えている理由は一目、いや一耳瞭然です。自分にはどうしようもできない、ひどく辛い悲しみがあったとき、この曲を聴くとなおさら泣けてきてしまいます。常日頃我々がどうしておかなければならないか、いつもいつも考えさせられます。それと同時に、震災を体験しながらまだ生きていられるという幸福をかみしめます。おそすぎないうちに、今できることをしておかなければならない。日々感謝を忘れずに、もしかしたら明日震災が起きて、何かを失うかもしれないから、遅すぎないうちに、幸福な今のうちに、できることをやっておかねばなりません。

響きわたれ、僕たちの歌、生まれ変わる神戸の街に!
届けたい、私たちの歌、幸せ運べるように!

たとえあらゆる人が復興成ったと思ったとしても、震災の教訓を忘れてはならないし、それを伝えていくことは神戸が好きな人の責務です。

2011年1月16日日曜日

GuakeターミナルとGnome-do

1日早いですが1/17は是が非でも書きたい別の記事がありますので、本日は振替でプログラミング・・・もといパソコン関連です。

Ubuntu10.10を使っていて、Windows7より使いやすいと喜んでいるのですが、さらに二つのソフトを入れて、ますます使いやすくなりました。

一つはGuakeターミナル。
sudo apt-get install guake
でインストールできます。Vine Linux5.2にもあることが判明しています。
F12で上から下りてくる形の端末エミュレータで、ショートカットキーを設定してやれば、タブを自由に操れます。いちいちマウスで変える必要がなく、消したい時には邪魔にならない、素晴らしい端末です。マウスに手が伸びない程作業効率は高まる、というのが私なのでこれのおかげで非常にスムーズです。

もうひとつはGnome do。これとGuakeターミナルを組み合わせるとマウスを使う必要なんてないのでは?と思えてきます。ほとんどキーボードだけで仕事が出来るようになります。これもやはりapt-getでインストールできます。

これら二つによって、私のUbuntuは現在、キーボードだけで殆どの仕事ができます。ゲームなど娯楽面でWindowsを使わないのであれば、Ubuntuだけで全部の仕事が出来るように組んでしまったので、最近はWindowsを入れなかったらよかったんでは・・・?と思う始末。

ともあれ、もしよろしければ、guakeとgnome-do、いれてみてください。