2011年1月8日土曜日

やりたいけれどそれをやるのが嫌

私にはなりたい自分というのが少なからずありますし、やりたいと思うことも少なからずあります。しかし、それをやってみて、やりたい、なりたいという気持ちは変わらなくとも、それをやる、なるという行為自体がしんどいと思ってやめてしまうこともあります。なりたいもの、やりたいものへ向かう努力が持続しない、というのが最も正しいのでしょう。勉強もせずにテストの点を取りたい、という例えが最もわかりやすいですが、そんな「成果」のレベルではなく、もっと易しいレベルでやるのが嫌だという、矛盾した気持ちと行動があります。

そんな事例はいくつもあるのですが、最も顕著に分かる例として、サッカーがあります。
私をよく知っている人ならば殆どが吃驚することでしょうが、私はサッカーをやりたいと思うことが少なからずあります。それも、ちょっとしたやりたいではなく、何らかのチームでやってみたい、と思うことが割合多くあります。しかし、やろうやろうと思って、実際にチームに入っても、それを続けることができません。結局自分はサッカーに向いていないのだろうと思って、やらなくなるのですが、やらなくなると、やっぱりチームに入ってやってみたいと思うのです。
運動は基本的に苦手だし嫌いなので、別にスター選手になりたいと思うわけではなく、ただ楽しめればいいと思うのですが、それでもチームに入ってみると嫌だし、でもチームに入らないと入りたいし…

その他にも同じ事はたくさんあります。Aしたい、と思う。しかし、Aをやるとそれをやるのが嫌だと思う。やめると今度はAがやりたい。「こんなハズじゃなかったのに」という気持ちがあるならば別ですが、Aをやりたいと思っていながら、そのA自体がいやでやめるとはどう言うことでしょう。そして、それをやめてもまたやりたいと思うという。

自分の気持ちがわからないのです。外因も、あるいは嫌になる要素もなく、自分がやりたいと思っていることをやって、それが嫌になり、しかし嫌になってやめるとやりたくなるという自分の気持ちが。

誰か他にもそんな人はいませんか。そして、それをうまく抜け出すのにはどうされましたか。誰か教えていただければと思います。

2011年1月7日金曜日

プログラミング事情の進歩

プログラミングをはじめて、今年で8年になります。当時と今ではずいぶんとプログラミング事情が違っていて、現状でプログラミングを始めようという気になっている人には、ずいぶん優しくなったのではないだろうかと思います。

インターネットが非常に早くなってきた最近では、コンパイラのディスクがついている書籍を買わなくとも、インターネットで全ての情報を手に入れられます。私のプログラミング・パートナーはほとんどの言語をインターネットだけで勉強したと言っていましたが、だからといって書籍で勉強している私と特段の違いがあるわけではありませんでした。コンパイラが手に入り、勉強のためのサイトがあり、非常に便利です。

私がはじめたばかりの頃は、コンパイラの入手とインストールにも結構苦労したものでした。とにかくインターネットが遅かった故でしょうが、まだ光ファイバーが普及していなかったというのにもその一因があるのでしょう。Visual Studioをもらって入れるまで、私は必死に設定したbccでプログラミングを勉強しました。

現在はどうかというと、これはとにかく便利になりました。
Windowsでやるのであれば、Visual Studio Express Editionを取れば手軽に統合開発環境が手に入ります。エディタを色々考える必要がありません。コンパイルもできますし、これだけで勉強できます。
Linuxだって簡単です。wubiを使ってUbuntuをインストールしてしまえばいいのです。wubiはLinuxのインストールを相当簡単にしたという意味で、プログラミングの世界を広げたと思います。Linuxをインストールしたら、あとは
sudo apt-get install eclipse anjuta
とでも打って、eclipseやanjutaを入れてしまえば、統合開発環境が整います。なんと楽か。

Linuxを入れようと思ったら、起動時にディスクを入れ、きちんとそちらから起動することを確認した上で、時間をかけてインストールしなければなりませんでした。今はwubiでホイホイと、1時間もあればインストールが仕上がります。Ubuntuにはgccが入っていますし、geditもありますから、プログラミングで困ることはありません。emacsの方が便利なら、そちらを取ればいいのです。

多くの言語が体系化されていて、書籍でもネットでも、十分多くのことを学べるようになりました。

今、いろいろな人にプログラミングを教えていて、以前よりもずっと楽にプログラミングまで到達できるということに、うらやましさを覚えます。それと同時に、私が教えているということが少し進歩を妨げているのではないかと不安に思うこともあります。自分ひとりでプログラミングの道を歩いていく。あるいは仲間と、暗い道を歩いていく。今の私のプログラミングの力は、そうして養成されてきたものですから、a to z教えられる「先生」がいて、道案内をして習っていては、一番髄のところにたどり着けないのではないかと思うのです。

進歩してきたプログラミングでも、先生の存在だけはかわりません。今も昔も、添削をしてもらいたいと思っても、周囲に詳しい人がいなければ添削はされません。私はパートナーに添削を依頼したことはありませんし(ちょっとした質問はありますが)、逆もしかりです。私が教えている後輩には添削指導をしていますが、それによって学べる後輩を見ていて、自分に添削指導はなかったなぁとしみじみ思います。

2011年1月6日木曜日

年賀、その素敵な習慣

年賀状や年賀メールもそろそろ一段落です。明日が松の内の最終日ですから、年賀状の出番は終わりで、明後日からは寒中見舞いです。帰省している間は年賀状をかけなかったので、私が年賀状を出していないのに来た、という方と喪中の方には寒中見舞いです。冬の、雪などがかかれた美しい便箋の登場です。

年賀状で、久しぶりに言葉を交わす人もいれば、ついこの前あったという人もいます。そのそれぞれが新年おめでとうという気持ちに溢れており、私自身もまた晴れやかな気持ちになります。携帯会社などには大変申し訳ないですが、私は年賀メールが好きです。いろいろな人がいろいろな言葉と共に、年賀メールを送ってくれます。年賀メールだけの付き合いにならない様にしよう、といつも思います。

年賀状はそれに輪をかけて嬉しいものです。とりわけ、普段あまり話さない様な人から久しぶりに来た年賀状などは、その人のことを気に止めていない自分を大いに反省し、今年はせめて手紙をしよう、と思わせてくれます。

年賀状が虚礼だ、と言って廃止するような動きがあります。年賀状は年賀メールにとって変わられていく、という意見もあります。それでも、この年賀状という文化は、たとえ細くなろうとも、いつまでもいつまでも残り続けていくように思います。人の心を伝える手段として、かくという行為は最も基本的だからです。たとえ私の友人のあらゆる人が年賀を送らなくなっても、私はデジタル媒体・アナログ媒体の両方で、年賀メールや年賀状をおくりたいと思っています。そして、それをずっと貫いていきたい。素敵な習慣だから、私は年賀状が好きですし、年賀状を書かずにはいられません。年賀状を面倒だという人もいますが、年賀状は数少ない、いろいろな人を思い出す機会なのではないかとも思います。

年賀、その素敵な習慣が永く続くことを祈ってやみません。
今、年賀状も年賀メールも書かなくなった方、一部には人からの年賀状や年賀メールにも返事を出さなくなってしまったのではないでしょうか。せっかくあいさつをくれているのだから、返事ぐらいはと思います。たとえ自分が書かなくても、あいさつをくれた相手にあいさつを返さないのは全く持って失礼です。「おはよう」と相手が言っているのに、こちらは無視する、では言った相手はいい気持ちはしませんし、素敵な思いも台無しです。

年賀状や年賀メールを見ながら、自分のおくっていない人が少なくてほっとしながらも、奥っていない人には早くだそうという気持ちを強くしたのでした。

2011年1月5日水曜日

ドクターグリップに感じる「名前」

一の位が5の日は文房具ネタです。

ドクターグリップと言えば、たいていの人が知っている有名な筆記具の名称ではないでしょうか。たいていの人が知っていると言えばまだ聞こえがいいのですが、これしか知らないという人も多いのではないか、というとペンというものの位置づけの低さが伺えます。

私はペンが好きです。昔から好きです。当然、自分の使っているペンの名前をいうことができます。でも、それを実際にできる人は決して多くありません。私の友人たちで、ペンの名前を言える人はほとんどいません。車をかって乗っている人たち。自分の愛車の名前は言えても、愛用のペンの名前は言えません。そもそも、ペンに名前があるということに驚くような人さえもいます。

なんということでしょうか。名前というのは事物の認識・区別の最も基本的な要素であると思います。それを覚えてもらっているのは、一部のマニアックな人から覚えられているのを除けば、ただドクターグリップだけだなんて。車も文房具もツールであることにかわりはないはずですが、車はよく覚えられ、文房具は全く覚えられない。その扱いの違いに、人々の心がいかに文房具の方に向いていないかということを感じます。

文具チャンピオンの高畑氏も著書の中で同じ事を書いておられました。その言に強く共感すると共に、少しだけでもいいから、自分の役目を見直そうと思いました。

私は万年筆布教家でいいのか、と。

もともと文具は全て好きなのですから、万年筆以外の文房具も布教するべきです。そんな折に、ドクターグリップは、文房具の名前というものを意識する最も基本的な文房具として、見直すべき原点においておきたいと思わせてくれるペンです。

私は、布教論として、万年筆だけでなく、他の文房具の布教も出来ればと言う道を研究しようと思いました。同時に、今やろうと思っている万年筆のデータベースも何とか出来れば・・・と思います。

自分自身の一人の研究として布教を、他の人にも協力を依頼する課題としてデータベースを出来れば、とおもっております。

2011年1月4日火曜日

新年とは何だろう

新年はめでたい、とよく言われます。また一年生きてめでたい、新たな区切りを迎えてめでたい。その意見に異を唱える気は一切ありません。

新年とは何なのか、いつも除夜の鐘を聞きながら考えます。同じ1秒であっても、気にされることなく過ぎる1秒があれば、カウントダウンの1秒がある。皆が新年を祝っている中で、新年とは何なのか、気になるのです。同じ1秒に、これほどの差を生じさせる新年とは何なのか。

新年は、人間が勝手に決めた区切りに過ぎません。地球が太陽を1周するのに完全にあっているわけでもありませんし、1秒のセシウム原子を用いた定義など、あとからのコジツケのようにさえ思います。時間軸をとれば、たとえ12月31日午後11時59分から測り始めても、5月31日午前0時01分から測り始めても、なんら変わりはないわけです。

その「区切り」に意味を付けているのが人間活動の成果であるというのが最も「らしい」答えなのでしょうが、自然科学的に新年の意味を考えても、その「新年」に、自然科学的な大きな違いは見えません。私が無知なだけかもしれませんが・・・。

新年は人間が決めた調度よい区切りであり、地球が太陽の周りをほぼ一周するようなぐらいの時間です。そこに自然科学的な意味を求めるのが間違っているのかもしれませんが、新年を迎えるとき、人間の文化としての新年の祝いを、他の生物はどう見ているのか、気になってしまうのです。

2011年1月3日月曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう 番外編2

今回はララバイSingerのアルバムから選びます。

宙船:TOKIOの楽曲として知っている人も何人もいて、カラオケに行くとTOKIOの方を聞くときが多いですが、みゆきさんの歌のほうが私は好きです。ファンなので多分に色眼鏡が入っているはずですが。「お前が消えて喜ぶものに お前のオールを任せるな!」非常に単純に言うのであれば、言葉足らずなのは承知のうえですが、自分の道は自分で歩めということです。お前のオールというのは自己のことであり、自己を失ってはならないと言うメッセージが込められていると思います。

水:「水を少しください」その、水が指すものはなんなのでしょうか。一切明らかにされることはなく、淡々と詞は進んでいきます。最後まで聞いても、水が何かの喩えであることはわかっても、なんの喩えであるか、具体的な実態はないはずです。水は我々生命の源であり、それを生命の核心に例えている、と私はとっていますが、それが答えであるとは限らない曲だと思います。その「水」を知ることができるのが、大切な事を知ることができるのではないかと思わせてくれます。

重き荷を負いて:「重き荷を負いて 坂道を のぼりゆくもの一つ 重き荷は重く 他人には 何一つ 見えはしない」のサビの部分に応援のメッセージを感じます。他人には何一つ見えはしない重き荷を、我々一人ひとりはどうすれば良いのでしょうか。自分が精一杯だから、ただ自分でその荷物を持って歩いて行くしかない。その精一杯さがあるから、他人には見えなくても、我々は頑張ることができて、それを登り切ることこそ、死を迎えるに足る状況になることなのではないかと思います。

2011年1月2日日曜日

理系の現代文

理系の友人や後輩には、少なからず、現代文が苦手だとおっしゃる人がいます。私は古典や地歴公民のほうがよほど苦手で、現代文は好きだし得点源でもありましたから、理系ならば現代文は・・・という考えは持っていませんが、それでも得意だ、好きだと言う声は殆ど聞いたことがありません。

現代文という科目は、我々が現在使っている日本語に関する科目ですから、非常に日常的なものです。古典や英語に比べても、ほぼ確実に、こちらは毎日接することでしょう。だからこそ却って苦手なのではないかという気がします。

私は手紙を書き、文章を書き、日々を生きています。だからかもしれませんが、日本語の表現というものにはずいぶんと敏感です。悪筆で、字の書き順などめちゃめちゃですが、それでも現代文という科目を嫌いになったことは一度もありません。だから、理系の現代文についても、別に敬遠したりということはありません。

文章がロジカルに書かれているかどうかという観点から見れば、まだまだ磨くべきところばかりでしょうが、少なくとも、現代文を読み書きするということに苦手意識はありません。そして、現代文の読み書きは日常必ず必要なことです。それが「理系だから」という理由で苦手というのは、なんだかおかしいのではないかと思います。

確かに現代文について学ぶ学科は文系学科です。日本語学の書籍を見れば、文学博士の先生が書いていらっしゃいます。であれば現代文は文系学科に行って勉強しなければならないようなものなのか。私は、その答えはノーだと思います。理系の細分化された学科などに比べれば、よほど日常に即していると思います。理系の細分化された学科も当然日常に即しているわけですが、しかし、日常に即しているレベルまで理解するのにはかなりの修練がいる。その一方で、現代文は日常の材料をそのまま見ているわけで、むしろ近いわけです。

非日常の材料を見るのは難しいものです。ビットという概念が理解しづらいのは非日常的なものだからかもしれません。その観点から言えば、英語や社会科が苦手なのは、自分にとって非日常的であり、その材料を求めなかったから、と言えるかもしれません。なんとなく「理系だから」でもわからなくはない。

同様に、文系だから数学が、物理が苦手というのもわからないではないのです。数学は日常にあるとはいえ、微分積分まで含む構造を考えることはまれでしょうし、ましてや暗号化通信のアルゴリズムを考える人はそう多くないでしょう。物理は実際の現象を記述しているといいますが、それは日常の現象のうち「記述できそうな部分」を取り出しているからであって、その「記述する部分」によって分野が変わるから難しい印象をうけるのかもしれません。

それでも、現代文だけは、材料がないとは言えないと思います。材料がないから苦手なのだ、とは言えないと思います。

現代文が苦手なのが悪いとか、嫌いなのが悪いとかいう気はありません。でも、「理系だから嫌い」というのは、上のようにこじつけの感の否めない「材料の少なさ」を以てしても納得することができません。理系だから現代文が苦手なのでも、逆に現代文が苦手だから理系なのでもない。現代文が苦手なのは、日常に転がっている現代文の材料に割いた労力よりも、他の材料に割いた労力のほうが大きいというだけだと思います。やっていないから苦手、というのではなく、日常的すぎて、それを材料として料理しようという観点で見られないから苦手、ということではないでしょうか。

「理系だから現代文が苦手」と言っている人。あなたは理系だから苦手なのではない。現代文という材料よりも、理系の材料に、より強い興味があって、そちらの料理のほうが好きだから、現代文の料理が苦手と感じているのだろう。私はそう思います。やっていないというのではなく、あまりに身近すぎるから、苦手なのではないかと、そう思うのです。