2011年2月8日火曜日

お節介と取られれば

お節介というのは厄介なものです。当人が好意でやっているにもかかわらず、相手には迷惑だったり鬱陶しかったりするからです。頭でわかっていても、自分のやってることがお節介かどうかというのは判別がつきにくいものです。

自分が良かれと思ってやっていることは少なくありません。でも、人間には考え方の違いがありますから、それが必ずしも良いとはいい切れません。単純な例として、私は後輩に自分から話しかけていますが、これをどう取るかは後輩次第です。先輩の方から話しかけてくれてありがたい、ととってくれればいいのですが(私は基本的にそう取ります)、先輩の方から話しかけられると気をつかって返事をしなければならないし、と取られるとこれは迷惑です。そんな些細なレベルからお節介というのがありますから、お節介を焼かない様にしようと思うと、何もできない様な状況になってしまいます。

でも、普段の様子を見ていると、私が良かれと思ってやっていることは大抵お節介になってしまっているのではないかと思うのです。
自分から話しかけてくれることはない人々。
"わざわざ"用意までして書いてくれる手紙。
バイトの後になるのに遊んでくれる友人。
そんなのを見ていて、自分のやっていることがお節介になっているように、迷惑になっているように見えてしまいます。

結局のところ、自分がいなければ丸く収まっているかもしれない。その人々にとっては自分とであったことが迷惑な"好意"を受ける不幸の始まりだったかもしれない。そう思うと、自分という存在がなくなってしまったほうがいいのではないかとすら思うのです。

少しさびしさを感じるような静かな曲を部屋で聞きます。その時には、ただ聞いているだけで、他の人には何の影響も与えません。結局のところ、それが一番なのではないかと。何もせず、ただひとり自分の世界に閉じこもっている方が他の人にとっても自分にとっても良いのではないだろうかと思います。どれほどお節介と取られているか、どれほど悪意と取られているか。気が滅入るという言葉がぴったりです。

ある(ゲームですが)物語の言葉に
"It is far safer to be feared than loved."
というものがあります。
実際に、この言葉を使う人は、恐れられるがゆえに、畏敬されるがゆえに愛されるよりもよほど安全な場所にいるのですが、現実世界においてもある意味では正しい訳です。
あいつは変なやつだからと、ある意味で恐れられて、誰からも敬遠されていれば、寂しいでしょうが安全です。少なくとも、誰もが自分を必要としていないということがわかるから、平穏です。ずいぶん昔に、色々な人から嫌われていた頃、いや、今も嫌われているのでしょうが、一人ぼっちで家族以外に話せなかった頃、寂しくもどれほど安全だったことか。

結局のところ、自分という存在などない方が、世のため人のためではないかと思ってしまうのです。自分のやっていることがお節介にとられているのであれば、何をもなせないのですから。

2 件のコメント:

kammy さんのコメント...

kammyです

こんにちは
一度お節介をやくのをやめて
相手が求めてくるまで待てば と思います

こちらから感心ある人(お節介やく人)が
イコール 相手がこちらを求めるとは限らないから

1つ忠告(人生の先輩だから許してね)

「どんな人でも
たとえ道ばたで生活している人でも
犯罪を犯した人でも
世界で一番正しいのは『自分』だと思っている」

という真実(だと私はそう思いますし
そう思っている方が生き易い)

お節介はいいけど
あくまでお節介なので
その結果を求めるのは間違っていると思うけど

といっても先の真理からいえば
「自分が正しい」になるんだけどね

達哉ん さんのコメント...

>kammy さん
ありがとうございます。
結構、「求められるまで待って」それから何かいう「好意」もお節介に感じられてしまうので悩ましいですね。
世界で一番正しいのは自分、"Nobody is right"にも通用するものですね。