2010年7月28日水曜日

非存在への願望

自分自身が無価値であると感じることは人間誰しもあるものだ、と、何かの本で読みました。それがどこまでの範囲で無価値であると感じるのか、と言うのが人によって違うのではないかというのが私の考えです。

先日の、何よりの「非存在への願望」。それをもう少し書こうと思います。
死そのものよりも死の後に周囲にかける迷惑が怖いということは先日に書いたとおりです。

ドラえもんの「独裁者スイッチ」の話では、消された人がはじめから存在しなかったことになります。その話では最後に消された人が出てくるのですが、むしろ逆で、私は完全に存在しないままになりたいと、出て行きたくないと思うのです。森山直太朗「生きてることが辛いなら」の、よく批判を浴びる部分の歌詞にある通り、私が小さく死ねば、恋人と親が悲しむことでしょうから、少なくともそれは避けたいのです。それを最も都合よく避けられるのが非存在である、と。

今、この文章を書いている自分というものがなくなればどんなにか楽だろうかと思います。生きているということ自体がある種の罪であり、私は他人に迷惑をかけずに生きることができないというのに、死ぬときにも迷惑を掛けるのだろうと思うとなさけない限りです。それならば非存在をというのが、最も手近な逃げ道です。

今はもう、変化が嫌で、自身が嫌で、なにより存在が嫌です。時空が止まっているうちに、自分のいきている痕跡をすべて消して、自分でなくなれれば。あるいは、この「達哉ん」という人間を別の心(命・魂か?)が代行してくれれば。そう思わずにはいられません。

友人も含めて、自殺はいけないと、なにより自殺されるとその友人自身が困ると言ってくれていて、私はまだ踏みとどまっています。そうしてもう2年ほどになります。でも、私が死んで困る人が、悲しむ人が一人としていなくなれば、私はすぐにでも死ぬことができるだろうと思います。誰も私を好まなければ、私が死んだとき誰ひとりとして私を看取ろうとしない状況になってくれれば、私はすぐにでも自殺を企てたい。

また別の本に「すべての人に好かれるのは無理なことだ」と書いてありました。では、その逆は。全ての人に嫌われ、疎まれ、あるいは無関心に、ぞんざいに扱われるようになるのは、無理なことなのでしょうか。もしそれが可能ならば、私はそれに向かって努力してしまいたいように思います。そして、何よりも、それよりも手早い答えとして、非存在、があります。

コメントを下さっているつきみそう様は、悪魔に頼むなら、という前提で非存在へのあこがれを書かれました。私は、自分の好きなハリーポッターの小説に出てくるすべての魔法が使えるならどうするか、というように考えます。…それならば、私を知る全ての存在に忘却術をかける。私という人間が二度と思い出されることがないような、強力な忘却術を。そして、自身に、アバダケダブラ、死の呪文をかける。私という人間が、誰なのかもわからないままに、弔われるような、そんな状況が一番だと思います。

孤独死が問題になっている昨今ですが、孤独死を迎えた人は本当に不幸だったのだろうか、と思います。もしかすると、自分という人間を看とる人がいない状況で死んでいくというのは、非存在の近似なのではないかと。それならば、孤独死を迎えた人の中には、特に、生きたいだけ生きて孤独死を迎えた人の中には、自分の死に方に満足している人もいるのではないかと思うのです。

孤独に臆する自分がいる中で、あらゆる人の忘却の彼方に追いやられた「完全な孤独」を欲している自分がいる。その矛盾も、また自分自身を嫌なものにしています。

完全な非存在になることができるならばそれが一番良いし、逆に、非存在になれないならば存在を証明したいという、矛盾した二つの行動。でもそれは、もしかすると、あらゆる人からの無関心の中死んでいくということと、あらゆる人が「達哉んなんて死んでしまえばいい」と心底思ってくれる中で死んでいくことの、どちらかを欲する自分にとっては、納得のいく結論と言えるのかもしれません。

毎晩思う、非存在への憧れ。…私という人間が存在していなければならないとするならば、それほど辛い罪はありません。そういう意味では、死刑よりも、うけた人間が死ぬまでの間の懲役の方が、もっとずっと苦しい罪ではないかと思います。

2 件のコメント:

つきみそう さんのコメント...

 映画「バックトゥザフューチャー」の一シーン、主人公の両親が若い頃、恋が成就しない方向に行きそうになって、そのとき、主人公の姿が透明に(うすく)なる、というのがありましたが、非存在はそういうものでなければ、と思います。

 周囲の人に忘れてもらって、自分が消えてなくなる、というのはなくて、はじめからいなかった、ということが重要です。ならば、そのようにしてくれと悪魔に頼んでいる自分もいなかったことになるので・・・・・と、結局はそれがあり得ないことだと気づかされますね。

 かつて強かった、気楽だったというのは、そりゃ鈍感だったんです。裸の王様だったのです。いろいろと賢くなってきたから、安らげないほどいろんなことが気になるのです。私たちの祖先、アダムとイヴは、そうなったために楽園を追われました。だから私たちは、そもそもそういう存在なのでしょう。

 今、自分がいなくなったら、ということをよく考えます。あの仕事、この仕事。やりかけで放置してあることが、結局他の人にゆだねられ、結局は何事もなかったかのように処理されます。だから、自分なんていなくてもいいのだといえますしし、そういってしまうと誰一人いなくてもいいということになります。誰もいなければ、誰も何もしなくていいのですから。

 で、結局、ロクでもない人間がいっぱいいること、そのことが世の中を成り立たせているのだと、そうなりませんかね。そう考えて諦めてしまえば大丈夫です。

 で、仏教で色即是空と教えるように、何も確たるものはないのだと思えばいいのです。しっかりとした自分の存在意義を求めてもしんどいだけです。

 いけない大人ですが、そうはいっても非存在へのあこがれはなくなりませんけれど・・・・・。

達哉ん さんのコメント...

>つきみそう さま
いつも気にかけてくださってありがとうございます。
「自分なんていなくてもいいのだといえますし、そういってしまうと誰一人いなくてもいいということになります。誰もいなければ、誰も何もしなくていい」というのは気づかぬ考えでした。自分がいなければというのではなくて、自分がいなくても大丈夫だと考えることで、逆に気持ちが楽になるように思いました。最も、それで非存在へのあこがれがなくならない、というのもおっしゃるとおりだとは思うのですが・・・。