2010年5月30日日曜日

本当に「優しい」なら の罪悪感

私は後輩たちに優しいと多くの人に言われます。それは、後輩達に、手とり足とり最後まで教え、少々自分の趣味の時間などがなくなっても後輩につきあうからです。

けれども、それが本当に優しい選択肢なのかどうか、迷う時があります。
本当の意味で優しいというのは、その人自身の最も「ためになる」行為をいつも選べるような、そんな先輩のことだと私は思っています。そうすると、私のようにわからないところはいつでも聞けるというような、そういう状況を作り出すのは、優しいのではなく甘いのではないか、という気さえしてきます。

甘いことと優しいことは、まるで違うことです。私は後輩には甘い方だと思っていますが、それでも、後輩達が明らかに悪いことをしている場合にはきちんと叱るようにしています。「わかる」とかいうレベルの話ではないのです。後輩がきちんとした意見を持っていて、その意見の正誤が判定できないような場合、自分とはまるで違う立場の場合などは「理解する」ことができますが、相手が明らかに悪いという場合、極端な例ですが、後輩が仮に殺人を犯したとするならば、それはすぐさま警察につきだすことでしょう。

後輩のよき理解者であることに日々努めていることが、優しい先輩なのでしょうか。本当に優しい先輩ならば、自分の身も顧みず、後輩が「悪いこと」をするのを止めるのではないでしょうか。自分が憎まれ役になってでも、それを叱りつけるのではないでしょうか。

私は自分かわいさに、そんな場から逃げているように思えてなりません。後輩を理解する立場だから優しい人間なのか、いや、そんなことはないと思います。

本当に優しい先輩とはどんな先輩なのか、自分自身が優しいと感じる自分の先輩のことを考えて、優しいといわれる自分のことが恥ずかしく思えてくるのです。

2 件のコメント:

hiyoko さんのコメント...

私は後輩たちの論理的意見には比較的賛同します.19での飲酒喫煙も,彼らが意見を以てしているなら,認容します.殺人も私は状況によります.四の五の言わずというのはあまり好きではありません.尤もうちの研究室の原子間力顕微鏡を壊したときは大いに叱りました.でも怒ってはいません.無益だから.

私も甘い先輩です.彼らが聞きに来たらhintはいいます.無論自分が"解って"いれば. ――自然科学には謎がいっぱい

私は優しくあろうとすれば究極までegoisticであれば良いと思います.達哉んさんは正誤と書かれましたが,私は正誤とは社会的要請によって定まるとしか考えていなくて,自己の追求によって決めればいいと思います.

達哉んさんにとって良い先輩がいてよかったですね.私の考える良い先輩とは「この人には絶対に追いつけない」ような先輩です.

達哉ん さんのコメント...

>hiyoko 様
コメントありがとうございます。

正誤とは社会的要請によって定まる、確かにその通りだと思います。そして、日本の場合、その社会的要請の多くは(もしかしたら全てかもしれないですが)多くの人が認めているかどうかによって定まっている、ということも。

多数に迎合するべきだという気はありません。でも、自己の追及において、自己損失の恐れがある場合や、あるいは自己の追及にとって全く無益だと感じることは(先輩がいうから、という理由による盲信など)はできるだけ叱ろうと思っています。

意見を持っていない人などいないといいますが、意見をきちんと表明できるような後輩でいてほしいと思っていて、それであれば、私自身、それを実行しなければならないと思っています。