2010年9月23日木曜日

あの時の選択が違えば

ただひとつの選択が人生を大きく変えることはよくあることで、よくあることだからこそ些細に見える選択も十分に検討しなければならないのだと思います。

「あの時の選択が違えば」と思うことがあります。それを知ることが出来ればよいのに、と思うのです。そうして、それが間違いだったと思ったら、前車の轍を踏まぬよう、自分史に綴っていけばいいのです。そうしてできた自分史が増えていけば、人生の指針となる本は随分増えるように思えます。

私の今の人生は、中学の時の部活動の選択が大きなファクターとなっています。でも、もしあのとき、私が長続きしないだろうと思って諦めた運動部に入っていたらどうだったろうか。バスケ部なら、バレー部なら、サッカー部なら・・・色々考えてしまいます。高校のとき、運動部に入ろうかと思って、でもスポーツ校だと言われることのある学校だからと、運動部の選択肢をはじめから捨てました。私がその時選んでいたら?多分途中でリタイアしていたのでしょう。大学に入ったとき、初めて運動部と名のつくものに入部して、でもそれはすぐにリタイアして・・・。続けていれば、今はどうなっていたのでしょうか。少しは疎ましがられなかったでしょうか。

部活動の例を多く出しましたが、私の今の人生にそれがすごく強い影響を及ぼしているためです。中学の部活の時に母に言われた「途中で投げ出すな」、今にいたるまで、最低一つはやり通していますが(兼部しているうちのひとつだけは貫いている、ということですが)、そのやり通すものを変えていれば今の自分はどうなっていたかわかりません。

高校のとき、ほんの少し、演劇部に入っていたこともありました。生徒会執行部に入ろうと思い立って、「ノリ」のような感じでやめてしまいました。あまり好きではなかったのもありますが、面白さを知る前にやめてしまったのは否めません。続けていれば今どうなっていただろうかわかりませんが、それを知ることが出来ればなぁ、と思います。

あの時の選択が違えば…その「違う選択」の先を知ることはできません。でも、過去の選択を変えてみて、今どうなっているかを知ることが出来れば、それは後悔を強くするのかもしれないけど、人間の知恵として何かしら生きていく指針となるのではないかと、そう思います。

あの時の選択が違えば今にいたるまでどうなっていたかを知ることができる、そんな道具があればいいのにな、と思います。

6 件のコメント:

つきみそう さんのコメント...

 あのときの選択で違う方に行ってたら・・・・・って
いうのは、とっても知りたいものですけれど、けっして
知ってはいけないもののように思います。

 あぁ、あのときあっちに行ってれば、自分ももう少し、
っていうのは自分を慰めるのに最適なもので、けっして
誰にもわからないものだからこそ無責任に言えるのです。

 もしそんなことまで明らかになってしまったら、息が
詰まってしまうだろうなぁ、なんて思います。

 知らない方が幸せ、ってことはいっぱいあるのでしょうね。

達哉ん さんのコメント...

>つきみそう さん
ありがとうございます。
そうですね、「知りたいものですけれど、けっして知ってはいけないもの」なのでしょう。人間は自分自身にとって最悪のものを欲しがる癖がある、と何かに書かれていましたが、たぶんこれ、私がいつもほしがっているということは最悪のものなんでしょうね。
最悪のものはいつも甘美に見えるもの。時間の流れを変えられるような道具も、「違う選択をしたらどうなるかわかる道具」と同じぐらい欲しいので、きっと本当は最悪のものなのでしょうね。

それでも私は人間たる以上、最悪のものが欲しいようです。

二右衛門半 さんのコメント...

”凡人は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ”という言葉があるみたいですが、わたしも凡人なので経験からしか学ぶことができません。
尤も私の場合、何度も同じ失敗することもあるので凡人以下なのかもしれないです。
過去を見ることはできるけど過去の改変はできないし、未来を見ることはできないけれど、選択肢は今から撰ぶことができる。
時を超えることができないので、この状態で満足するしかないのかもしれませんな。

達哉ん さんのコメント...

>二右衛門半 さん
ありがとうございます。
経験から学ぶ、それも十分に難しいものだと思います。過去は見られても変えることはできない、未来は見えないけど自分で作ることができる…シドニィ・シェルダンの「ゲームの達人」に「過去は岩である。変えることはできない。しかし未来は粘土である。日に日に形作られていく。」というフレーズがありましたが、正しくそのとおりなのだと思います。

岩はものすごい圧力とものすごい熱を与えれば変形できます。もしかしたら将来、相対論が過去という岩を変形するかもしれません。記憶の中の過去は、時として都合のイイように書き換えられたりもするので…。

でも、今の状態で「欲しいと思っていても」それを手に入れることはできないと言い聞かせています。

ガマ さんのコメント...

ぺん★ぱれーどっ!のガマです。
 色々と考えられることが多いようですが、ガマの経験から言えば、少なくとも“無駄な人生の選択肢”と言うのは存在しない気がします。量子力学の世界ではどうか知りませんが、現在があるのは過去があるからですし、過去において選択してきたことがなければ、今目の前にある選択肢も、未来において存在する選択肢も存在し得ないのです。そう考えていけば、IF論を考えていくのは“自分が何故存在するのか”という、非常に非合理的な問に行き着きます。
 “我思う、ゆえに我あり”というデカルトの命題は、説明するまでもなく哲学史に残る有名なものですが、よくよく考えれば生命あるものが必然的にやっている当たり前のことです。ただその命題を説明するのが、言葉にすると難しいだけで、私達は普段何も考えず、されど“選択して”現在を生きています。その反証可能性においてIFを考えるのは自由ですが、それは現在を否定する意味において有効なだけです。もっともそこに“明らかに自分の人生にマイナスになったであろう選択肢”が存在するのであれば、自分の現在に対する肯定としても使えますが……。
 結局のところ、「もし~だったら、~かもしれない」ということを考えるのは人の性ではありますが想像力を働かせて、現在の立ち位置を確認するくらいの意味しかありません。こう考えると非常に冷徹に思われるかも知れませんが、IF論を過信することは、現在の自己を否定することに直結するのです。
 ……なんて、キザっぽく聞こえるでしょうが、現在の自分を否定するより、信じてあげましょうよ。法学とかをやっている関係で、ガマはCogito ergo sumは真理に対する文字情報的な詭弁だと思うのですが、まぁこんなことを言うと、これを研究されている方には殴られそうですよねw

 何にせよ、人間というのはいつも最高の状況にはないものです。けれど最低の状況にもないはずです。自分自身の立ち位置だけで「もしも~だったら」というのは簡単ですが、たとえシュレーディンガーのなんちゃらの学問の発展によってその現実化が可能になったとしても、ガマは現在の自分を選びたいです。自分自身を否定することは出来ても、今まで出逢って来た人達までは否定できませんから。

 人間と言うのはそういうものですよ(なんてw)。

達哉ん さんのコメント...

>ガマ さん
コメントありがとうございます。

「自分自身を否定することは出来ても、今まで出逢って来た人達までは否定できません」というところが特に思い当たります。Ifを実際考えてみると気がありますが、結局どこかで人間的な無理が生じていることが多いですから・・・。

無駄な選択肢は確かに無いと思います。実際、わずかにしか入っていなかった演劇部も今の自分に一役買っています。でも、ちょっと今の自分がしんどい時に、ifを考えてしまいます。しんどくなければifは考えないですから・・・。