2011年7月18日月曜日

才能の半分は「好き」だ

自分自身が色々学び、またいろいろな人と話しているときに、いつも思うのは「才能の半分は好きという気持ちにある」ということです。

私はプログラミングが好きです。紅茶も好きですし、万年筆も好きです。文具全般が好きですし、リコーダーも好きです。読書も好きであれば、中島みゆきの曲を聞いたり歌ったりするのも好きです。

そのいずれもに対して、自分の労力を惜しむことはありません。古本屋に出かけて何十冊と本を買ってきてそれを読み耽る夜があれば、プログラミングのソースコードを大量に書く夜もある。休日に、歌っている日もあれば、リコーダーを吹いている日もある。毎晩のように入れるお茶も、新しい智慧があれば取り込む。万年筆は普段使いにしているけれど、情報収集には余念がない。そんな日々です。

それらの多くは、友人に呆れられることもあるほど時間を費やしており、また、それなりのレベルには達しているはずです。事実、これらについて質問を受けることは少なくなく、趣味と言いながらも実際に役立つ場面もあります。

逆に私は、体を動かすことが嫌いです。歩いたり自転車で軽く行くのは嫌ではありませんが、走る・鍛えるなどの概念が入ってくるとすぐに嫌になってしまいます。以前、サッカーがやりたいと書きました。それに嘘はなく、今でもサッカーをやりたいという気持ちは有ります。でも、その先に、私のどうしても嫌いな場所がある。その「嫌い」という気持ちは、他の趣味にあるような「嫌い」の部分よりよほど大きく、15年以上何をやれど変わることのない気持ちです。現在に至るまで、私は体を動かすことを好きと感じたことがなく、それ故、私はスポーツに打ち込む気もちを知りません。そして、その気持ち故に、スポーツは長続きしません。実際に数回手を出しましたが、どれもすぐに嫌いになってしまいました。

好きになるまでの道があるものもありますし、好きになるのはその楽しみが分かってからである、という考えもあります。ですが、そこまで行くには、途中で並大抵でなく嫌いなものがある場合、強制力等がないと相当に厳しいと思います。そもそもの興味がその途中の「嫌い」に打ち勝つほどある人か、あるいはそれを「嫌い」と感じる前に通り過ぎられる人こそ、それを自分の得意分野として活かすことが出来るのだと思います。

活字を読むのが嫌いという人がいます。多分、その楽しみを味わう前に、黒々とした字面に嫌気がさすのでしょう。私は、そんな嫌気に出会うより前、まだ幼稚園に通っていた頃に、いつも本を読んでいる祖母を見て、自分も多くの本を読みながら育ちました。それ故、私には字面に嫌気が指す、などという体験がなく、嫌いと感じる前に楽しみがわかる段階まで行ったのだと思います。

数学が嫌いな人は枚挙に暇がありません。数学という学問はそもそもずいぶん面白いと思うのですが、アレルギーという人までいて、大変だなと思います。数学はある程度の強制力があり、また、その分野の啓蒙書を読んで嫌いと感じるところをきちんと抜けられた。だから、数学が(マニアというほどではないにしろ)今でも好きなのだと思います。

プログラミングが嫌いという人も少なからずいます。はじめ、ゲームを作りたいという思いから、よくわからない文法と必死に格闘して、プログラミングを学びました(もう10年ぐらい前のことです)。この目的意識のおかげで、私はプログラミングが楽しいという水準まで行くことができたのだと思います。

それらの気持ちや目的意識、あるいは強制力がない分野を、私が好きになるのはとても難しいことです。だから、尚更のこと「才能の半分は好きであるということにあるのだ」と思います。

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