2013年1月2日水曜日

手紙の心にまつわる3つの話

昨日の目標でも書きましたが、今年は手紙熱が高まっています。それを忘れないために、ここに3つ、手紙の心に関する話を書いて、私の今年の"初心表明"といたします。この話自体は、以前聞いていたものを再度掲載しただけなのですが。

1.遅い喪中欠礼に添えられた心遣い
この前読んだ本、何だったか忘れていましたが、それに書かれていた話です。

喪中欠礼の挨拶が遅れると、相手は既に出してしまっているかもしれません。ある程度早くても、一部には年賀状を書き始めるとても早い人がいて(私などは10月末〜11月初頭に書き始めます)、困ってしまうかもしれません。

そんな遅い喪中欠礼に、次のように書かれていたというのです。
「...ですので、こちらからのご挨拶は控えさせて頂きますが、お送りいただいた年賀状にはお礼申し上げます。賑やかなのが好きだった故人も喜ぶことでしょう」

こう書かれていると、既に送ってしまったという時でも随分とありがたいです。私も今まで幾度か喪中の方に出してしまったことがあるのですが、寒中見舞いや喪中欠礼の返事がある度に申し訳ないことをしたと思っていました。この一言だけで随分と救われる気がします。


2.送らなくていい年賀状
年賀状を送る風習が減って来ましたが、面倒だと思って書くぐらいなら、年賀状の風習は減ってもいいのではないかと思います。

字にその人の人格・心・状況etc...が出るというのは、万年筆が好きな人なら皆が言うことでしょう。実際、誰が見ても、なんとなく字から感情が伝わってくるような気はするものです。

面倒だなと思って作る年賀状を手書きで書くと、その面倒だなっていう気持ちの年賀状ができてしまうように思います。といって、パソコンだけで作った年賀状は殺風景です。であれば、いっそ出さないというのもありなんだと思います。

年賀状なんて、出さなくていいんです。出したいなって思える人にだけ出せばいいんだって思います。虚礼だなんだって言われてやめる年賀状ならやめればいい。「この心のこもったもののどこが虚礼なんだ」と言えるような、そんな年賀状をこそ出すべきなのだと思いますし、それができないのであれば別に出さなくたっていいんじゃないかなって思います。

3.古典における手紙の話
何の古典だったか、「世間の言う挨拶の時にだけ手紙をくれるの人は、世間の流れで出しているだけのようであまり嬉しくない。折節に触れて、世間の行事などに関係なく手紙をくれる人のほうが良い」というものがありました。このように、"文"に関する古典は比較的多く、読んでいて、古来から手紙は待ち望まれるものであったのだと勇気づけられます。

枕草子221段の"文は"や徒然草35段の"手のわろき人の"などは、手紙に興味がある全ての人に読んでもらいたいものです。大変大雑把に言うと、前者は"手紙は良いものである"と、後者は"悪筆でも自筆が良い"というものです。

このように、古典にもたくさんの手紙が書かれています。そして、これは人間が人間と触れ合う絆が古来からずっと良いものだと思われている証拠だと思います。

翻って現代、折節の手紙はずいぶん少なくなりました。私信なんてほとんど絶えた時代。そんな現代の中で、多分一番使われない、しかし古典的な風習として「寒中見舞い」があります。どうも年賀状と時期がかぶるため、送る人はほとんどいなくなってしまったように思います。喪中の方が、伝えていない人から来た年賀状への返信として送るぐらいでしょうか。このように、寒中見舞いはもはやその存在すら思い描かれないようなものとなっています。私は、古典の心を忘れず、この寒中見舞いも含めて、世間一般の手紙の季節以外にも折節に触れて手紙を出していきたいなと思っています。

そして...
ここにあげた話で言いたかったことは、手紙は心があってこそだという事です。
きちんと心のある手紙を書いていきたい…2013年の一年を通じてそうしていきたいと思います。

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