2011年3月29日火曜日

笛吹けども踊らず

ことわざは
昔から好きで
今も見たり
つかったりするけど
とみに意識するのは
笛吹けども踊らず
だったり

初めて読んだとき
意味がわからなかった
15年前の記憶

今はその意味が
痛いほどわかる
身を刺すようにわかる
胸にしみわたってわかる
涙こぼしそうなほどわかる

笛は踊るものじゃない
ただ聴くだけのものだ
そういう人もいるかもしれない
笛吹きの私は
一本の笛を
今日もまた吹き続ける
ただ聴かれるだけで
それは聞いてないのと
傍目には変わらない現状で

笛を吹いて笛を吹いて
私は道化師になっていく
私は顔をなくしていく
私は存在を崩していく
もう誰も私を見ていない

やがて疎まれて
笛の折られるときがくる
笛吹きの唯一の
たった一つの
存在証明たる笛が
折られてしまう時がくる

笛は今日も
かそけき音を立てる
誰に聞かせる強さでは吹けず
もう消えていくだけの笛が
私の胸に残る

笛吹きの私が
白鳥の歌を吹くとき
いったい幾人に
その歌は聴こえるだろうか
冷たいような美しさの
笛の音は
白鳥の歌を運ぶのだろうか

3 件のコメント:

kammy さんのコメント...

kammyです

こんにちは

人は他人の事なんて
これっぽっちも思ってませんよ
自分がみんな大事なんです
tatuanのように
他人を構うなんて面倒くさいんです

tattuanは自分は違うと
自分は他人を構うのが好きだと言うでしょう
でもそれは
自分のためにしているように見えるんです
そうでないと思うけど
他人からは絶対にそう見えるんです

もし他人が振り向いてくれないなら
他人が振り向いてくれないことを嘆くなら
その原因の100%はあなたにあるのですよ
100%
それを他人のせいにしてはいけないよ
100%自分を変えないと

でも人は基本的に変われない
だから
あなたのように愚痴を言う
他人のせいにする

原因は自分に一番近いところにあるのに
そこを見ずに
ちょっと近い所を探しているのでは?

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

>kammy さん
ありがとうございます。
これ、自分が云々というのではなく(自分は今、自分のこと…とりわけ競技プログラミングばかりしています)、友人の話を聞いていて、それについて思って書いてみたものです。なので、意見文ではなくて韻文です。その事自体が「自分のためにやっている」ものでしょうね。
私は利己主義であり、私が他人のためと言っているのは、所詮自分の寂しさを紛らわせるために過ぎません。そういう状況で、自分が「かまってくれない」というのは、自分が寂しさに勝てるだけの強さをまだ身につけていないからだ,と思う時もあります。そして、それがいつ身につくのか,私には全く見えません。

kammy by Kamitani Toshio さんのコメント...

kammyです

了解しました
でもこれ読んだら
tattuanの心の嘆きだと
みんな思うよ
今までの読者なら

打ち込む事があって
安心しています