中島みゆきのオールナイトニッポンを聞くことがあります。その内、1985年1月28日の放送の最後に読まれた投稿とその返答に、いたく共感したので、そのことを書こうと思います。
まず、その当該部分をテキストで起こしておきます。
(投稿)
みゆきさん、みゆきさんは年賀状を出した友人からきちんと返事が来ましたか。
僕のところは一通除いて返って来ました。
その一人はきっと出してくれると信じていたのですが、ついに来ませんでした。
彼も色々と忙しいのだろうとか、郵便屋さんがどうかしたのではないかと思っていたのですが…
先日、その相手を町で見かけたのですが、向こうは慌てていて、言葉を交わすことなくすれ違いました。
彼は僕を忘れてしまったのでしょうか。(BGM 「成人世代」 が流れだす)
彼は僕をもうなんとも思っていないのでしょうか。
もし僕が彼にとって過去のものであるなら、彼に謝りたい。
手紙なんか出したりして、彼にとっての過去を蒸し返したことになるから。
僕も彼を過去に追いやってしまえば楽になれるのかもしれないけど、彼の気持ちを聞く勇気もなく、また、彼がどう思っていようと友人だと思っていたい僕は、独りよがりの甘えん坊でしょうか。
P.S. 風邪が流行っています。くれぐれも体には気をつけて下さい。
(みゆきさんのコメント)
優しい...人なんですね。あんまり優しくて自分を傷つけてしまいそうな人。
...あたしも、返事書いてない人いるんだ。
のんびり書いてるもんだから...夏になっちゃったりすんじゃないかなって思ったり。
きっと友達ものんびりしてるんじゃないかな、なんて思うんだけどね。
最近、手紙という媒体は廃れたかもしれないけど、今の手紙愛好家として、共感できるところがたくさんたくさんある、そんな内容でした。
年賀状がまだ1通除いて返ってくるような、そんな時代。今はもう、賀状じゃなくて、いろいろな媒体になってしまって、年賀状って言う媒体が廃れてしまいましたが。
返事のない人に思うこと。
「彼も忙しいのかな」
「郵便で何かあったのかな」
そんなだけじゃなくて
「私を忘れてしまったのかな」
「私のことが迷惑なのかな」
そう思います。
投稿では「もし僕が彼にとって過去のものであるなら、彼に謝りたい」とありますが、ほとんど同じ事を手紙を出して何にもないときに思います。
もし、私が、手紙を出した相手にとって、何でもないものだったのであれば、前に出て目障りだったことを謝りたい。そう思います。
投稿の最後の一文の締めは、驚くほど自分に近い。
私も、多くの人を過去に追いやってしまって、手紙やメールなんか出さなければ楽になれるのかもしれないけど、私にはそれはできない。当然、その相手の気持ちを聞く勇気もないし、相手の気持ちに拘らず、仲良くいたいと思う。せっかくの縁・絆だから。この人が「独りよがりの甘えん坊」だったら、自分もそうです。
年賀状を書いたりするとき、返事がない人、もう梨の礫になってしまった人を、「書く人」のリストから消しました。身を切る思いでした。
みゆきさんはそんな投稿者のことを「あんまり優しくて自分を傷つけてしまいそうな人」と言い当てていますが、私も殆ど同じ事を感じているのだから、たぶんそんなところがあるんだろうな、って思ったりします。
手紙を出すのは、いいものだと思っている。
でも、迷惑がっているかもしれないと思うと、出すのを少し躊躇してしまう。
手紙を認めるときの一抹の不安。私の心持ちを代弁してくれた、そんな投稿とその返事に、はっとしました。
「友達ものんびりしてるんじゃないかな」…そう思いながら待っても待っても、結局何にもなかった手紙がたくさんある。それをみて「迷惑なのかな」って思ってしまって、でもその人を過去に追いやれない私。未練がましいな、って思うんです。
そんな私のことを、読んでくれた人はどう思いますか?
独りよがりの甘えん坊なんでしょうか。それとも、みゆきさんの言うような「優しすぎる」人間なのでしょうか。それともそれとも、もっと別のなにかなんでしょうか。
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