2010年8月7日土曜日

届いていない暑中見舞い

今日からは残暑見舞いになるんですが。

暑中見舞いがちゃんと届いていない、ということを友人から聞きました。大量に書いている身なので、だし忘れたかな?と部屋中探しましたが見当たらないので、やはり出しています(基本チェックしていますので)。でも向こうには届いていない、となると、郵便配達過程で何かミスがあったかな??と思います。宛名の書き違いとかかもしれないし。

ひとまず調査依頼を出しましたが、もしかすると見つからないかもしれません。私書なので泥棒の可能性は低いと思うのですが・・・。

どこに問題があるか、ということよりも、出したはずのものが無事に届かず、鮮度が命の手紙が意図した時期に届かないのが残念です。暑中見舞いがこれ以降に届いて、変なやつやなとなってしまうのが残念です。

鮮度が大事な手紙だから、出すときには注意しないといけないと思いますし、無事届いているという信頼を置いているだけに、うまく届いていないと聞いたのは残念でした。郵便だってミスがあろうからそれを責める気はないですが、なにより残念だったと、それが言いたかったのです。

2010年8月6日金曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その1

「誰も書かなかった中島みゆき論」は著名な書籍ですが、このホームページもあり、ホームページに書かれているベスト200を聞いてみようと思うようになりました。

ものすごい数である上に、私は貧乏学生ですから、youtubeで聞ける程度、という制約がかかってしまいますが、それでも聞けるだけ聞いてみよう、と思います。そして、このブログで、その個人的感想を書きたいな、とも思います。

2010年8月5日木曜日

信頼できないから辛い

知り合いで、私のことを心配してくださっている人が言っていたのが「信頼できないから辛いのだ」ということです。疑心暗鬼云々というのではなくて、欠点ゆえ、あるいはその人の性格との不一致故に「信頼できる状況」というのが殆どなくなって、辛いことを話せなくなる。それゆえ、はけ口がなくて、辛くて仕方がなくなってしまうというのが、その人の意見です。あるいは、相談相手自身の状況が厳しいがゆえに相談できなくて、はけ口が減ってしまうのもその原因の一つだとおっしゃていました。

血縁関係云々や尊敬しているといった話を通り越して、自分の辛い状況を理解して親身に相談に乗ってくれる人はまれです。自分の血縁関係にある人が辛い状況にあって、親や祖父母に相談するにも気後れするような状況であれば、血縁関係の有無、愛情の有無という問題ではなく、相談しづらくなってしまうでしょう。他人の方が第三者としてみてくれるから相談しやすいという場合もあれば、尊敬している人にあまりにつまらない問題だから相談しにくくて、という場合もあるでしょう。相手の立場柄、プライベートなことを相談しづらいというのもひとつの「相談できない状況」だと思います。

そもそも臆病な性格ゆえに信頼できる人が少なく、その上相手の邪魔になってはという、ある種相手が自分へ割いてくれる時間への不信感が辛さを招き混んでいるのだといい聞かせても、正直辛さは募ってきます。だから、信頼できる人を持つことが大切なのだ、とは思うのですが、相手の状況を考えると、なかなか切り出せないような場合も多くあります。

そういう、「信頼できない辛さ」は性格的なものが原因となっていることが多いようで、なかなか簡単には取り除けないようです。事実、私は信頼できない辛さをよく感じるような性格ではないかと、その人に言われました。間違っていないと思います。
信頼できないから辛さを募らせてしまうという状況を回避するには、少しでもいいから、幾人でもいいから、何とかして信頼できる人を見つけて、少しでも話を聞いてもらうことだ、と思います。

今、自分がつらいときに、話を聞いてくれるという友達が何人もいて、そのおかげで助かっています。それがいなかったらと思うとぞっとします。信頼できないから辛いという性格の人には逆に、状況に応じて相談できるような人がいればいい、と思います。全てにおいて信を置くのが難しい性格でも、どこか共感できる点で信を置くことができるようなところがあれば、だいぶ心が楽になるだろう、と思うからです。

信頼できないから辛い、自分もそういう状況に陥ることがあります。だからこそ、状況に応じてでいいから、TPOに応じてでいいから、その場その場で信頼できる人を持って、相談できるようにすることが、辛さを解消する手段ではないかと思います。数日続くような辛さも、信頼できる人が相談できるようになるまで待てば、それが割合短い日にちで来るとわかれば、その日まで頑張れるものです。

つかの間人を信じれば、もう半年頑張れる・・・私がいつも涙する中島みゆきさんの「帰省」の一節ですが、半年とはなかなか行かないものです。だから、つかの間人を信じれば、もうしばらく頑張れるということで、誰か信じて、相談をするというのも大切なことではないでしょうか。

2010年8月4日水曜日

酔えないなら忘れられないか

中島みゆきさんの歌が好きで、色々と聞いています。その中で、いくつかの歌に出てくる、酒を飲んで忘れてしまう、という内容。私は酒を嗜まない人間であり酔えないからでしょうか、嫌なことをなかなか忘れられません。お茶を飲んだりゲームに興じたり、自分の好きな勉強に精を出したりしますが、特段、自分の評価、それも自分がきちんと全力を出してできたと思うことに対する評価が悪いものはいつまで経っても残っていて、心のなかに苦味を残し、悲しいものです。

酒を飲んで忘れられるというのは羨ましいですが、お酒は飲みたくない。人間は嫌なことを忘れてしまうように出来ていると言われますが、少なくとも自分の悪い評価を受けたことだけはずっとずっと引きずってしまいます。それも、自分が良かれと思って出来る限りを尽くした時のことは。

つい数日前のことのように思い出すのに、ふと気づけばもう一年近く立っているような「悪い評価」もあります。中には数年前のものも。そういうものをずっと持っているのは自戒にはなるでしょうが、それをいつまでも引きずっていては正直しんどいです。それにもかかわらず、私は悪いことをなかなか忘れることができない。ポジティブに捉えるとかそういうレベルの話ではなく、嫌なこととしてしか記憶されないようなことを忘れられないのは、特に中島みゆきさんの歌詞のようによって忘れるようなことができないのは、もしかするとつらいことなのかもしれません。

私は酒を飲む人を否定しませんし、節度ある量を飲む限り、酒は百薬の長だと思っています。徒然草第175段(酒は百薬の長と徒然草にも書かれている、と誤った引用が多い段です)にも、酒の悪いところは知りながら、「かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり。」と、酒の良さも書いているからです。酒は心身を害する恐れもありますが、適度に過ごす限りは楽しいものなのだろうと思います。私が酒を飲みたくないのはひどく個人的な理由ですが、そういうことで嫌なことを忘れられるならば、どんな感じに忘れられるのか、一度聞いてみたいとも思います。

酔っ払わないなら忘れられないかどうか、正直に言うとその答えは出ていませんが、少なくとも酒が効率のよい物忘れの手段なのは間違いないようです。

忘れることが人間の心の浄化作用であるというのは否定の余地はないと思います。そして、それによって嫌なことを忘れられるのが人間の忘れる作用のいいところだとも思います。でも、今の自分の「忘れる」作用は、嫌なことを忘れるよりも、忘れてはならないようなところなどで無駄に働いているような気がしてなりません。忘れる作用がきちんと働くのであれば、嫌なことを忘れさせて欲しいと思います。なぜ、数年前、十数年前に叱られたことを思い出して辛い思いをしなければならないのかと思うと、本当に辛くて、参ってしまいます。

2010年8月3日火曜日

頭の限界

私の先生と呼べる人が、「誰の頭にも限界というのがあって、それを超えたときに、人は心の病というものにかかってしまう。」と仰っていました。そのことを最近痛感します。

自分が今いる場所で、自分ができる限りの措置は行っていても、やはり苦情はなくならない。むしろ、やっていること自体が苦情の原因のように聞こえてくるように思うことがあります。そういう状況で、ふと気づけばいつも精神的に参っているような状況です。これがつづいていて、参っては倒れて眠ってしまうような、そういう日々が続いています。それでも、限界だと思っても今の状況で放り出すのはあまりにも無責任だからと頑張るしかないから、余計のことに辛く感じる。

私に限らず、誰にでもストレスの許容量というのがあると思います。どんなに偉い人でもそうだと。それがオーバーすれば心の病にかかる、というのが冒頭の先生の言葉ですが、それを最近ひしひしと感じます。もともとストレスの許容量を超えてしまったために病気にかかってしまった自分ですから、下手にストレスの掛かる最近がいいとは全く思えません。だから、ストレス解消に精を出しているのですが、やはりストレス源を除きたいというのが正直な意見です。

私のできることには限界がありますが、何かの立場にあるときには、天井知らずにそういった意見が来ます。それを処理し続ける限り、自分の頭の許容は少しずつ近づいてくる。それを何とかしないことには私は休むことができないのですが、もう後1ヶ月はなんとか持ちこたえないといけません。

そのためにも、ひとまずは解消できるものを解消していかねば、と思っています。

2010年8月2日月曜日

縁の切れ目

訪れるべくして訪れる別れはともかくとして、考え方の違いなどから生まれる縁の切れ目ほど辛いものはありません。そんな縁の切れ目がありました。

私が自分の属する団体で、その立場上行っていることが自分の考えに合わない、そもそも人種が違う、と言われて、その人は今後一切の連絡はしないでくれと去って行きました。とりなすこともなく、私はただそれを呆然としてみているしかなかったのです。

私は後一体何度そういう縁の切れ目に耐えないといけないのかと思うとあまりに辛い。その団体では私が中心となっていて、全く何も連絡をくれない人もいる。そういう人のひとりが、私の対応が悪いと去っていったのですが、それに対して私はただひたすら無力です。私の出来る限りをやっていて、それで対応が悪いと怒られるのであれば、私にはこれ以上どうしようもありません。

付き合う人は自分で選べばいい話ですし、私に愛想をつかすならそれはそれで仕方が無いことでしょう。あるいは、私のいる団体で、私が仕切っていることに反感を持つならば別に他の人を立てればいいことだとも思います。私の仕切る団体に無理やり入って私に付き合わされる義務だってない。でも、団体に属しているならば、せめて協力して、あるいは私がふさわしくないならばそれをはっきり論じて、他の人に託してほしかった。

去りゆくものに対して人間はあまりに無力です。縁の切れ目は当然あるものだけれども、考え方が違うから、と言う理由で訪れる縁の切れ目は本当にしんどい。そもそも考え方が違うなら縁などない、というのが普通だから、考え方が違うのにできてしまった縁は最終的に最悪の結末を迎えるものなのかもしれません。

「考え方が違うから」、縁の切れ目のジョーカーだと思います。だからこそ、どうしても辛い。考え方が違うなら違う同士でそれぞれの意見の交換ができるだろうという私の意見は、あくまで私の意見であって一般論ではないから…。

意見をはっきり言って、嫌われることを目標としていながらこの様で、自分自身を情けなく感じます。意見をはっきり言う限り、人間は嫌われてしまいます。それでも、はっきりした意見が必要な場合がある。そんな場でも意見を言わない人がいて、必要としている人が困ってしまう。そんなことがないよう、常日頃自分のいる位置で意見は述べるようにしています。それが逆に私の縁を切っていくわけですが。

意見をはっきり言う限り、私は嫌われ続けることでしょう。そうしていくつもの縁の切れ目ができる中で、自分を嫌わないでいてくれる人を、誰より大切にしたいと思います。たとえ私の意見に全て反対であっても、それもまた価値観だと受け入れてくれる人ならば、考え方の違いだけの理由から縁が切れるようなことはないと思うから・・・。

2010年8月1日日曜日

恩師からの暑中見舞いで

暑中見舞いを出していて、返してくれる人はもう随分稀になりました。友人、後輩、先輩、万年筆の世界で出会った人々、恩師等、思いつく限りに出しますが、そもそも暑中見舞いという習慣がないためか、一部に「ありがとう」というメールや電話があるものの、万年筆の世界の人以外で手紙による返事をくださる人は正直少ないのが実情です。メールや電話が手紙に対して劣っているとか優れているとかといった巷間でよく行われる議論はさておき、どんな形であれ、手紙が届いてすぐのうちの返事は特に嬉しくて、嬉し泣きしてしまうこともあります。返事を出さないのが標準化してきているというのは私が普段から続けている主張ですが、その一方で、きちんと返事をくださる方もいらっしゃる。そのありがたみに感謝しています。

そんな返事の一通に、恩師からのものがありました。サラリと書いてある文の中に、いつも含蓄のあることを書かれる先生で、学問に限らず色々なことを教わったように感じます。
先生が書かれていたのは、「気づかないうちに多くの人に支えられていて、その中で目に見える人もいる。目に見える人をまず第一に大切にしなさい、その人達の話をじっくり聴きなさい」と言うことでした。自分が気づいていない「支え」を大切にするのは正直難しいことだから、まずは目に見える人から大切にするべきだ、というように解釈しています。目に見える人すら大切にしていないような人間に目に見えない人を大切にできるわけがない、ということなのでしょう。まずは、自分の目に映る人々を大切にしたい、とそう思います。

世の人全てに好かれることは無理だし、自分を嫌う人を助けるのは相手にとって心持ちよくないこともあろうと思います。だからこそ、まずは、自分の意見に賛同してくださったり、自分の事をしたってくれたりする人を大切にしようと思います。世の中に完璧な存在があるなら、ありとあらゆる物を大切にできるのでしょうが、私はそんな人間ではありませんから、自分の目に止まる人々から、まずは大切にしたいと思います。