※ 25日〜31日は所要により、コメント等が遅くなる場合がございます。予約投稿ですが、ご了承ください。
中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。
中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。
解釈は人によっても異なりますが、時によって異なり、心によって異なり、状況によって異なるものであると思います。同じ曲を複数回出すこともあるかも知れませんが、それは状況や時が変えたということと考えてください。
夏特集の第6回は「帰省」です。夏特集は今回で終わり、次回からしばらくは特集のない、通常の連載としていきます。また、元通り、1の位が3の日の連載にします。
歌詞はこちら。
この曲は由紀さおり・安田祥子に提供した曲であり、以前書いた「過ぎゆく夏」の入っているオリジナルアルバム「短編集」の2番です。
中島みゆきの全曲中、私が一番好きな曲です。地味かも知れませんが、一番好きです。
夏の歌でもあり、冬の歌でもあります。ことあるごとに思い出して、心に響かせる歌でもあります。
プログラミング好きの私が「機械たちを相手に言葉はいらない」というこの曲を好きなのは、矛盾している気もしますが、この時の言葉は自然言語を指すのだ、ということにして納得しています。これも小さな解釈ですね。
ふるさとからの帰りに、ずいぶん心が温まって、やはり帰省はいいものであると歌ったうたです。都会と故郷の対比、と「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」には書かれています。同時に、都会が戦場であり、故郷が休息地であると。私もそう思いますが、それにもうひとつ、非常にうがった見方かも知れませんが、解釈を付け加えます。
都会はしんどい戦場である。そのことについて、私は異論有りません。寧ろ、あまりにもしんどくて、辛い、「顔のない街」であると思います。誰ひとりとして自分という存在を見ることのない、冷たい世界であるとも思っています。この機構に組み込まれた人間は、人間の顔をしていながら、結局人の思いを汲み取ることができないような機械と化してしまうとさえ思います。
インターネットなどが発達した現代でも、好きな場所に住んで好きなことを学ぶということは簡単にはできません。会社もそうです。単身赴任、多くの転勤、中心となるような都会へこなければ会社で働けないような社会。そんな社会への警告ではないか、と私は思います。
社会は、人間の心というものを軽視し、ただ人間をなにかの機械のように扱っています。朝から夜まで働き、会社から遠い家にすみ、その一方で子供は塾に行き、結局団欒すらできないような社会。そんな社会への警告を、帰省の良さと共に歌ったのではないか、と。年にたった2回しか、帰省の折にしか心を取り戻せないような社会の歪を歌ったのではないかと思います。
この曲を聞くたびに、故郷への思いが募ります。しかし、それでも頑張りきれないと思うことが多数有ります。誰からも好かれない日々を生きていれば、それは当たり前なのかも知れません。ただ機械だけに囲まれているような感があって、誰からも好かれていないようにしか思えずにいる私にとって、もう少し頑張るっていうのは、正直、本当に辛いことです。出来れば、今ちょうどしている帰省の地で、ずっと過ごしていたいと思うのです。
夏の歌でもあり、冬の歌でもあります。ことあるごとに思い出して、心に響かせる歌でもあります。
プログラミング好きの私が「機械たちを相手に言葉はいらない」というこの曲を好きなのは、矛盾している気もしますが、この時の言葉は自然言語を指すのだ、ということにして納得しています。これも小さな解釈ですね。
ふるさとからの帰りに、ずいぶん心が温まって、やはり帰省はいいものであると歌ったうたです。都会と故郷の対比、と「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」には書かれています。同時に、都会が戦場であり、故郷が休息地であると。私もそう思いますが、それにもうひとつ、非常にうがった見方かも知れませんが、解釈を付け加えます。
都会はしんどい戦場である。そのことについて、私は異論有りません。寧ろ、あまりにもしんどくて、辛い、「顔のない街」であると思います。誰ひとりとして自分という存在を見ることのない、冷たい世界であるとも思っています。この機構に組み込まれた人間は、人間の顔をしていながら、結局人の思いを汲み取ることができないような機械と化してしまうとさえ思います。
インターネットなどが発達した現代でも、好きな場所に住んで好きなことを学ぶということは簡単にはできません。会社もそうです。単身赴任、多くの転勤、中心となるような都会へこなければ会社で働けないような社会。そんな社会への警告ではないか、と私は思います。
社会は、人間の心というものを軽視し、ただ人間をなにかの機械のように扱っています。朝から夜まで働き、会社から遠い家にすみ、その一方で子供は塾に行き、結局団欒すらできないような社会。そんな社会への警告を、帰省の良さと共に歌ったのではないか、と。年にたった2回しか、帰省の折にしか心を取り戻せないような社会の歪を歌ったのではないかと思います。
この曲を聞くたびに、故郷への思いが募ります。しかし、それでも頑張りきれないと思うことが多数有ります。誰からも好かれない日々を生きていれば、それは当たり前なのかも知れません。ただ機械だけに囲まれているような感があって、誰からも好かれていないようにしか思えずにいる私にとって、もう少し頑張るっていうのは、正直、本当に辛いことです。出来れば、今ちょうどしている帰省の地で、ずっと過ごしていたいと思うのです。
※ この解釈は、あくまで私の一解釈であり、正しい・誤りであるというのを書くものではありません。一つの見方として受け取っていただければ幸いです。
※ 扱って欲しい曲がありましたら、コメントでお書きください。
※ 他の解釈が載っているサイト、もしくは自分なりの解釈がありましたら、コメントでお書きください。
2 件のコメント:
60過ぎの福島に故郷を持ち、孫もいる都会生活40年のバアバです。親孝行の出来ていない私が、唯一しているのは、年に2回の里帰りです。しかし、中島みゆきさんの帰省を聞いて、改めて、里帰りは親孝行以上に自分自身の原点に帰る大事な行動だったのだと教えられました。声を出してみゆきさんと一緒に歌うと、涙がながれて仕方ありません。北島三郎さんの「帰ろかな」の時以来です。中島みゆきさんには、この歌を紅白歌合戦か思い出のメロディーで歌って欲しい。今の日本に必要な歌です。
>匿名の方
コメントありがとうございます。
昔あった中島みゆきのファンサイトで、この歌は「ホームにて」の"故郷の優しさ"と、「ファイト!」の"頑張る人への応援"を合わせた歌だ、と言う意見を読みました。
そういう、"故郷の優しさで少し楽になって頑張ってね"という優しさをとりもどすために、おっしゃるとおり、日本に必要な歌なのだろうと思います。
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