寂しいなんて口に出したら、誰もみんな疎ましくて逃げ出してゆく。寂しくなんかないと笑えば、寂しい荷物、肩の上でなお重くなる。こういう話に欠かせない「歌姫」です。 人間は一人で生まれて一人で死ぬのだから、寂しさには耐えられるべきなのでしょう。でも、私には多くのことが寂しくて仕方がない。多数派でも少数派でも、寂しくて仕方がない。いくつになれば人懐かしさをうまく捨てられるようになるのでしょう。 たまにメールを送ります。返事は遅いし忙しそうで、迷惑なんだなと思うことしきりです。 たまに手紙を書きます。人間の本質は筆無精、却って迷惑に受け取られているのではないかと危惧します。 お茶会に誘います。来る人は多くないし、来てる人も私が先輩だからと無理して来ているのかもしれない。 意見を言います。結局みんなに疎ましがられるだけ。 以前にも書いたけど、受動ってのはほとんどありません。多分、自分から行動を起こさなければ、誰も私を目当てにすることはないのではないかと思います。話しかけられることもなし、先日誘われたのは気づけば1ヶ月ぶりで、私がメール出したりする相手から手紙やメール、ネットゲームの誘いがくることもない。結局付き合ってくれているだけで本当のところは・・・。 本当は一人でいられなければならないのかもしれない。でも、私はそれに耐えられないから色々な人に声をかける。それは「寂しいなんて口に出して」いることであり、だからみんな逃げ出していって・・・。 無理に付き合わせているのは本当に悪いと思います。この世の中に、私という人間を必要としてくれる人は結局一人もいないのではないかと思います。いつ死んでも良いと常々思っています。でも、それは不遜なことなのかもしれません。もしかしたら、私が一番人の役に立つためには、死ぬのが一番、いなくなるのが一番かもしれないから・・・。 自分が存在することほどに負の価値のものが他にあるのか?手紙を書いたり、メールを見たりして、ふと寂しいときにいつも思います。 もう半月もしたら、暑中見舞いを書き始めます。でも、実際は迷惑なのでしょうか。そんな思いがあって、毎年悩みます。むしろ書かない方が良いのではないかと。 何にでもなれるなら非存在になりたい。あちこちから疎ましがられているように感じるから、それなら非存在の方がよほどいいのにと思います。私という存在をすべて抹消してくれれば・・・。ある人が昔ブログに書いた、悪魔に願い事を言えるなら、私は自分のすべてを消してほしいと願うという文章、今でもずっと心に残っています。 エゴグラムで出た判定は、自分を良く表していて、それ故に私は寂しさから逃れられないのだと思いました。そして同時に、その寂しさという本質から推測される、人から疎ましく思われるということからも。
2011年6月2日木曜日
本質は寂しくて
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