2011年1月6日木曜日

年賀、その素敵な習慣

年賀状や年賀メールもそろそろ一段落です。明日が松の内の最終日ですから、年賀状の出番は終わりで、明後日からは寒中見舞いです。帰省している間は年賀状をかけなかったので、私が年賀状を出していないのに来た、という方と喪中の方には寒中見舞いです。冬の、雪などがかかれた美しい便箋の登場です。

年賀状で、久しぶりに言葉を交わす人もいれば、ついこの前あったという人もいます。そのそれぞれが新年おめでとうという気持ちに溢れており、私自身もまた晴れやかな気持ちになります。携帯会社などには大変申し訳ないですが、私は年賀メールが好きです。いろいろな人がいろいろな言葉と共に、年賀メールを送ってくれます。年賀メールだけの付き合いにならない様にしよう、といつも思います。

年賀状はそれに輪をかけて嬉しいものです。とりわけ、普段あまり話さない様な人から久しぶりに来た年賀状などは、その人のことを気に止めていない自分を大いに反省し、今年はせめて手紙をしよう、と思わせてくれます。

年賀状が虚礼だ、と言って廃止するような動きがあります。年賀状は年賀メールにとって変わられていく、という意見もあります。それでも、この年賀状という文化は、たとえ細くなろうとも、いつまでもいつまでも残り続けていくように思います。人の心を伝える手段として、かくという行為は最も基本的だからです。たとえ私の友人のあらゆる人が年賀を送らなくなっても、私はデジタル媒体・アナログ媒体の両方で、年賀メールや年賀状をおくりたいと思っています。そして、それをずっと貫いていきたい。素敵な習慣だから、私は年賀状が好きですし、年賀状を書かずにはいられません。年賀状を面倒だという人もいますが、年賀状は数少ない、いろいろな人を思い出す機会なのではないかとも思います。

年賀、その素敵な習慣が永く続くことを祈ってやみません。
今、年賀状も年賀メールも書かなくなった方、一部には人からの年賀状や年賀メールにも返事を出さなくなってしまったのではないでしょうか。せっかくあいさつをくれているのだから、返事ぐらいはと思います。たとえ自分が書かなくても、あいさつをくれた相手にあいさつを返さないのは全く持って失礼です。「おはよう」と相手が言っているのに、こちらは無視する、では言った相手はいい気持ちはしませんし、素敵な思いも台無しです。

年賀状や年賀メールを見ながら、自分のおくっていない人が少なくてほっとしながらも、奥っていない人には早くだそうという気持ちを強くしたのでした。

2 件のコメント:

大阪のオバチャン さんのコメント...

挨拶をくれた人に挨拶を返す。
挨拶を返してくれないと分かっていても挨拶する。
そんな達哉んさんのような人間ばかりだったら
どれほど平和で心地よい世界かと思います。

ちょっとずれますが挨拶で思い出しました。
私の故郷は本当に何も無い田舎ですが
道ですれ違えばたとえ知らない人間でも
気さくに挨拶を交わすのがあたりまえで
ひそかに誇らしく思っています。

声掛け合うっていいですよね。
とは言え、大阪ではちょっとやりにくいなあ・・・。

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

>大阪のオバチャン 様
コメントありがとうございます。
挨拶というもっとも基本的なことでも、軽んじられているように思うことがあります。すれ違い様にこんにちはと声をかけても知らんぷりして歩いていく先生も幾人かいましたが、正直に言って、あまり親しくはなれませんでした。

やはり挨拶のキャッチボールは人間関係の基本にあると思いました。