理系の友人や後輩には、少なからず、現代文が苦手だとおっしゃる人がいます。私は古典や地歴公民のほうがよほど苦手で、現代文は好きだし得点源でもありましたから、理系ならば現代文は・・・という考えは持っていませんが、それでも得意だ、好きだと言う声は殆ど聞いたことがありません。
現代文という科目は、我々が現在使っている日本語に関する科目ですから、非常に日常的なものです。古典や英語に比べても、ほぼ確実に、こちらは毎日接することでしょう。だからこそ却って苦手なのではないかという気がします。
私は手紙を書き、文章を書き、日々を生きています。だからかもしれませんが、日本語の表現というものにはずいぶんと敏感です。悪筆で、字の書き順などめちゃめちゃですが、それでも現代文という科目を嫌いになったことは一度もありません。だから、理系の現代文についても、別に敬遠したりということはありません。
文章がロジカルに書かれているかどうかという観点から見れば、まだまだ磨くべきところばかりでしょうが、少なくとも、現代文を読み書きするということに苦手意識はありません。そして、現代文の読み書きは日常必ず必要なことです。それが「理系だから」という理由で苦手というのは、なんだかおかしいのではないかと思います。
確かに現代文について学ぶ学科は文系学科です。日本語学の書籍を見れば、文学博士の先生が書いていらっしゃいます。であれば現代文は文系学科に行って勉強しなければならないようなものなのか。私は、その答えはノーだと思います。理系の細分化された学科などに比べれば、よほど日常に即していると思います。理系の細分化された学科も当然日常に即しているわけですが、しかし、日常に即しているレベルまで理解するのにはかなりの修練がいる。その一方で、現代文は日常の材料をそのまま見ているわけで、むしろ近いわけです。
非日常の材料を見るのは難しいものです。ビットという概念が理解しづらいのは非日常的なものだからかもしれません。その観点から言えば、英語や社会科が苦手なのは、自分にとって非日常的であり、その材料を求めなかったから、と言えるかもしれません。なんとなく「理系だから」でもわからなくはない。
同様に、文系だから数学が、物理が苦手というのもわからないではないのです。数学は日常にあるとはいえ、微分積分まで含む構造を考えることはまれでしょうし、ましてや暗号化通信のアルゴリズムを考える人はそう多くないでしょう。物理は実際の現象を記述しているといいますが、それは日常の現象のうち「記述できそうな部分」を取り出しているからであって、その「記述する部分」によって分野が変わるから難しい印象をうけるのかもしれません。
それでも、現代文だけは、材料がないとは言えないと思います。材料がないから苦手なのだ、とは言えないと思います。
現代文が苦手なのが悪いとか、嫌いなのが悪いとかいう気はありません。でも、「理系だから嫌い」というのは、上のようにこじつけの感の否めない「材料の少なさ」を以てしても納得することができません。理系だから現代文が苦手なのでも、逆に現代文が苦手だから理系なのでもない。現代文が苦手なのは、日常に転がっている現代文の材料に割いた労力よりも、他の材料に割いた労力のほうが大きいというだけだと思います。やっていないから苦手、というのではなく、日常的すぎて、それを材料として料理しようという観点で見られないから苦手、ということではないでしょうか。
「理系だから現代文が苦手」と言っている人。あなたは理系だから苦手なのではない。現代文という材料よりも、理系の材料に、より強い興味があって、そちらの料理のほうが好きだから、現代文の料理が苦手と感じているのだろう。私はそう思います。やっていないというのではなく、あまりに身近すぎるから、苦手なのではないかと、そう思うのです。
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