訪れるべくして訪れる別れはともかくとして、考え方の違いなどから生まれる縁の切れ目ほど辛いものはありません。そんな縁の切れ目がありました。
私が自分の属する団体で、その立場上行っていることが自分の考えに合わない、そもそも人種が違う、と言われて、その人は今後一切の連絡はしないでくれと去って行きました。とりなすこともなく、私はただそれを呆然としてみているしかなかったのです。
私は後一体何度そういう縁の切れ目に耐えないといけないのかと思うとあまりに辛い。その団体では私が中心となっていて、全く何も連絡をくれない人もいる。そういう人のひとりが、私の対応が悪いと去っていったのですが、それに対して私はただひたすら無力です。私の出来る限りをやっていて、それで対応が悪いと怒られるのであれば、私にはこれ以上どうしようもありません。
付き合う人は自分で選べばいい話ですし、私に愛想をつかすならそれはそれで仕方が無いことでしょう。あるいは、私のいる団体で、私が仕切っていることに反感を持つならば別に他の人を立てればいいことだとも思います。私の仕切る団体に無理やり入って私に付き合わされる義務だってない。でも、団体に属しているならば、せめて協力して、あるいは私がふさわしくないならばそれをはっきり論じて、他の人に託してほしかった。
去りゆくものに対して人間はあまりに無力です。縁の切れ目は当然あるものだけれども、考え方が違うから、と言う理由で訪れる縁の切れ目は本当にしんどい。そもそも考え方が違うなら縁などない、というのが普通だから、考え方が違うのにできてしまった縁は最終的に最悪の結末を迎えるものなのかもしれません。
「考え方が違うから」、縁の切れ目のジョーカーだと思います。だからこそ、どうしても辛い。考え方が違うなら違う同士でそれぞれの意見の交換ができるだろうという私の意見は、あくまで私の意見であって一般論ではないから…。
意見をはっきり言って、嫌われることを目標としていながらこの様で、自分自身を情けなく感じます。意見をはっきり言う限り、人間は嫌われてしまいます。それでも、はっきりした意見が必要な場合がある。そんな場でも意見を言わない人がいて、必要としている人が困ってしまう。そんなことがないよう、常日頃自分のいる位置で意見は述べるようにしています。それが逆に私の縁を切っていくわけですが。
意見をはっきり言う限り、私は嫌われ続けることでしょう。そうしていくつもの縁の切れ目ができる中で、自分を嫌わないでいてくれる人を、誰より大切にしたいと思います。たとえ私の意見に全て反対であっても、それもまた価値観だと受け入れてくれる人ならば、考え方の違いだけの理由から縁が切れるようなことはないと思うから・・・。
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