夏でも冬でも、自分自身の心の寒さというほど寒いものはありません。それは突然やってくることもあれば、十分な兆候の後に訪れることもあります。
自分という存在がぞんざいに扱われること程嫌なことはなく、これが一挙に来て寒い時と、じわじわと積み重なって寒い時があります。好きの反対は無関心とはよく言ったもので、ただ単に嫌われることよりも、憎まれることよりも、むしろ無関心であることの方が私自身を傷つけ、寒がらせます。
そんな日の夜は、凍えて寝てしまうか、あるいは凍えきらずに辛さに涙しながら過ごすかです。前者にしろ後者にしろ、辛いのはほかでもない自分であり、その寒さをなんともできない自分が嫌です。
寒さが極限に達する日、どうして心を凍えさせるほどの寒さが身を凍えさせないのかと思うこともあります。心が死ぬほど傷つけられていても、人間に死は訪れないという矛盾ほど苦しいものはそう多くはないでしょう。些細なことが積み重なることで、人の心が大きく傷つけられることがあるということを認識していても、自分自身の寒さがどうにかなるわけではありません。
今寒いわけではないから、淡々と書いているけれども、その寒さを短い期間にいくども経験したことが今の自分の人格形成に一役買っています。
自殺することで他人に迷惑がかかることは火を見るより明らかだから、積極的に死のうとは言えません。けれども、そんな寒さを何度か経験したのだから、もう死んでも未練はない、いつ死んでもいいとは常々思っています。寝ている間に心臓発作が起こって死ぬかもしれませんし、あるいは夕立の雷に打たれるかもしれません。通り魔にあってしまう可能性もあります。人間の死がいつくるかはわからないけれども、自分の心が凍てつく寒さを経験したのですから、死ぬこと自体に怖さを感じることはありません。安易に「死=絶対悪」と捉える人は、一度誰より寒い夜を経験して欲しいと思います。
日々を過ごす中で、私は死を何時でも迎えられる状態になりつつあります。別に死期が近いわけでもないのに、そんな状況になるのは変なのかもしれませんが、しかしながら、寒すぎる夜はそのことを教えてくれました。
今、死というものにとって唯一怖いのはその先にある、自分の周囲の生ある人間へかかる迷惑です。それであれば、死よりもある意味酷いのかもしれませんが、自分という存在が完全にないものであった方が、幾分寂しいかもしれないけれども、迷惑がかからないと思うのです。自分という存在を消すことと死ぬことは違います。後者は痕跡が残ります。その痕跡すらなくても良い、存在したくない、あるいは痕跡を我慢して死んでも良い、そんな時がいつきても良いと思える自分は、誰より寒い夜を経験して初めて生まれたものなのだと思います。
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