またまた発言はダンブルドア。第3巻558ページ(初版)より「大変な状況にあるとき、いつにもまして鮮明に、その人達の事を思い出しはせんかね?」です。
ここで言う「その人達」とはなくなった人達の事ですが、ともあれ、この名言は私も幾度か(形を変えて)スピーチ等に用いたことがあります。
この名言をさらに深く理解させてもらったのは相田みつを氏の書籍です。何という本だったかは忘れてしまいましたが、氏は「自分が何か迷ったときは、尊敬する二人の兄ならばどうしたかと考えることにしている」という旨のことを書かれていました。ふと、この言葉を思い出して後悔することがあります。
私は、人間で言えば「策士」というタイプで、自分自身、色々なことに策を持って望みます。無論、策に溺れることはあるわけで、多重に張り巡らせた一見隙なきように見える策でも当然にどこかから崩れ落ちます。そんなことがある都度、私は自分自身の策だけに頼った愚かしさを反省しています。その自分自身の策に「この人だったらどうするだろう」という考えが欠如している場合が多いからです。
本当のことを言えば、自分の尊敬する人ならばどうしたかを考えるべきでしょうし、また、尊敬する人に相談もするべきなのでしょう。しかし、私の臆病な自尊心のため、また、人を完全に信頼するのに何かわからない怯えがあるため、私はそう滅多に人に自分のことを相談できないのです。特に自分から言い出す必要があるときは…。
相談というのは、心の病を抱えた人が最も必要なものであり、同時に最も自分から求め難いものであると思っています。自分自身の経験でもそうでした。だからこそ、ダンブルドア先生の言葉のとおりに、「自分自身の中に生きる、すでになくなってしまった、自分の尊敬する人」に相談することが大切なのだと思います。
この部分を読んでいつも思うのに、本当に稀にしか自分の中の人に相談していない、自分が恥ずかしいと思います。
そして、自分自身が相談相手として選ばれることもある身として、なにより、他の人から相談を受けるのは能動である必要があるということも同時に思います。相談したいなら来て下さい、というのでは相手は来づらいし、くるときには十中八九手遅れかそれに近い状況です。日々相手のことを見て、自分の身近にいる人に対して何か違和感を感じたら、積極的に、何かあったのか、どうかしたのかと聞いてみるのが大切だと思います。おせっかい、大きなお世話と思われることも多くありますが、それでも相手がほんとうに困ったときに、早い段階で相談にのるためには、相談を「受ける」ことの積極性が必要です。
そんな相談ができないとき、まずは自分の中の人に頼ってみることが大切だ、といつもここを読むたびに思います。
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