2012年9月9日日曜日

ちょっぴり弱いぐらいがいい

周りの人には、それこそ負け知らずで、賢くて、一匹狼でも大丈夫で…みたいな、強い人も沢山いるけれど。私には、ちょっとそれはしんどいな、って思うんです。

多弁なのは、相手がいないことを恐れているからかもしれない。
お茶を飲む時誰かを誘うのは、自分が一人ぼっちでありたくないために違いない。
手紙を書くのは、故郷の友人とのつながりがないと不安だからだろう。

それぐらい臆病な自分だから、強い人とは程遠いだろうと思うことがしばしばあります。強い人の意見に、私は正直賛同しかねることもありますし、強い人の視点が、自分では到底到達できないもののように思えたりもします。でも、私はそれでいいんだと思うんです。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている価値がない」と、私の中学時代の恩師が卒業にあたっての「ことばの花束」に書いておられました。多くの人に頼らなければ到底生きていけない自分は、弱いだろうと思います。そして、そんな自分が優しいかどうかは、自分ではわからないことです。

でも、弱者には弱者の優しさがあると思うのです。弱者の論理かも知れませんが、強者然としている人よりも、弱みが見える人のほうが話しかけやすい。強い人の話を聞いて、たしかに強いんだなと思うけれど、正直それは自分に適用しづらい話で…。少し弱みを見せてくれる人のほうが、よっぽど自分に即した話になっているように思います。

強い人は素晴らしいと思うし、強くて優しい人には憧れる。
それでも、「弱い」って思わせてくれるぐらいのほうが、私は話しかけやすい。
「ちょっぴり弱い」ぐらいがいい、って、そう思います。


正直に言えば、自分は臆病で、孤独にとても弱い性質です。だからこそ、その弱さ故の優しさを発揮できればいいな、って思います。「あの人は、ちょっと弱いところがあるように見えるから話しかけやすい」みたいな、話しかけやすい感じがでればいいな、って。強い人とは違う思いかもしれないけど、ちょっとぐらい、弱くたっていいんじゃないかな、って。

周りに何人もいる、強い人たちから見れば、一笑に付される話なのかもしれないけれど。

2 件のコメント:

つきみそう さんのコメント...

今はもう取り壊されて他の人が家を建ててしまっていますけれど、私の生まれ育った家というのは、それはもう、実にたくさんの人が飛び込んでくる家でした。道を聞くのに,わざわざ玄関をノックして聞きに来るのです。ついには角を曲がり損ねた来るままで飛び込んできたほどです。正直、うっとうしぃし、面倒くさいことだったと思いますが、「困るで、ホンマに」と話す両親の顔がどこか誇らしげであると感じていました。

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

>つきみそう先生
コメントありがとうございます。
この前何かで読んだんですが「道を訊ねられやすい人」ってのがいるみたいですね(私もそんなタイプなのか、結構な頻度で聞かれる…)。先生の実家も、そんな「道を訊ねられやすい家」だったのでしょうか。困るけど、でも、「訊ねやすさ」という意味で大切なのかもしれません。
同じ事で、悩みを相談しやすい人としにくい人がいますよね。「無関係な人のほうが話しやすい場合もある」って言いますけど、それだけじゃなくて、多分、その人が「話しやすい」オーラの人であることも重要なんだろうな、って思いました。