自分が本気であっても伝わらない時があります。「笛吹けども踊らず」「魚心あれば水心」と、反対に見える二つのことばがあるけれど、大抵は「笛吹けども」であって、たまに「魚心」なのではないかな、って思います。誠意を持って対応したとしても、本気で対応したとしても、それが伝わることは稀なようにみえます。
本気であること、誠実であることに対して、自分が常に本気であること、誠実であることは難しいことです。それは社会的・所属的な面もあるでしょうし、人間的なところもあるかも知れません。あるいは、知識などで受けきれないような場合もあるだろうと思います。
しかし、自分自身の本気や誠意が伝わっていなければ、決していい気はしません。その度合いにもよるかも知れませんが、遺恨を残すようなこともありえます。もちろん、諦めきれるようなものもあります。そして、これらが積み重なってくると、自分が本気で誠意を持って対応するのが馬鹿らしくなるようにも思えます。
だからといって本当に馬鹿らしく対応していいのか。
自分のされた「嫌なこと」を繰り返すのか。
心に対して心を返さなくていいのか。
そういう結論に至っている人もいるかも知れないけれど、私はその結論にはどうしても至れません。それは、本当にわずかしか居ないかも知れないけれど、その本気や誠意が伝わる人に気持ちを届けるため。本気や誠意が届いたかどうかうかがい知ることに即時性はないから、人に心を伝えるときには、いつも本気でありたいのです。「ありがとう」「ごめん」と発する時、「御機嫌如何ですか」「どうぞご自愛ください」と認める時、定形かも知れないけれど、その定形の中に、自分の本気の誠意を込めているつもりです。伝わりにくいことかもしれないけど。
お茶をよく淹れるけれど、それでおざなりな対応をしないこと。私のお茶は「茶の湯」ではないかもしれないけれど、それこそまさしく「一期一会」のつもりでいつでも淹れるように心がけたい。それが完全にできているかどうかと言われると、自信はないけれども。
「自分が本気であっても伝わらない」、その後に続く2文字を「から」にしてはいけないと思うんです。「自分が本気であっても伝わらない」けど、それでも本気で誠意を見せれば、それをわかってくれる人がきっといるはずだと思うんです。
そして、その誠意をわかってくれる人こそ、自分が一番しんどい時なんかに、理屈も損得も立場も抜きで、感情のレベルで自分に付き添ってくれる頼れる人なのだなぁと思うのです。逆に、それがなければ、誠意をわかってもらえたかどうか、なかなかわからないのですけれども。
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