2012年9月12日水曜日

いじめの発見は教師の責任か

大津での事件以来、いじめの関連のニュースや意見をよく見ます。その中には「とりあえず教師が発見することが」というような論調の文章があり、違和感を感じます。

いじめに関するサインを送っている人がいて、それを発見出来なかった場合などはたしかに教師にもその責任の一端があるでしょう。あるいは、誰が見てもはっきりわかるいじめの情報があるのに適切な対応を取らなかったとしたら、教師を含む組織全体に責任があるでしょう。大津の事件や仙台の事件は後者に属するわけです。

私が最初に申しました違和感というのは、「いじめをなにが何でも発見せねばならない」というような考えを始めとして「いじめを発見出来なかった教師を減給すべきだ」「いじめを発生させたクラスの担任を減給すべきだ」などの意見に対するものです。

この論調ですと、それこそストーカーまがいのことをしてでもいじめを発見するのが急務になるでしょう。学校全体に監視カメラ/盗聴器を用意すれば、学校でのいじめは発見できる。裏サイトを始めとするインターネットアクセスに関連する情報は、ネットの履歴について親から提供を受ければよい。確かに、この様な完全な監視をつければ、いじめを発見することは出来るでしょう。でも、これは気持ちの悪い世界です。

同じ事をハラスメントについて適用してみます。上司が、部下の会社での行動を全て見る。(さすがに不正アクセスはいけませんから)部下の行なっているHP・ブログ・SNS等のネット上での活動を全てチェックする。これはたしかに、ハラスメントを発見できるかもしれません。でも、この行為自体がハラスメントになりかねませんし、ハラスメントが存在しない状況でこんなことをすれば信用をなくします。「村八分」の原因にもなるでしょう。「あいつは上司に監視されているから、仲良くすると自分も監視される」といって、その部下が嫌われてしまいますから。

いじめに視点を戻せば、とにかくいじめを発見しようと監視その他を強化していく方針は、その行為自体に問題があるという事です。そして、その行動は却って村八分からのいじめを助長してしまうだろう、という事です。このため、「教師はいじめを発見すべし」「発見できるかどうかは教師の責任にあるのだ」という論調に違和感を覚えています。

いじめの最初の発見は、家庭にあると思います(ハラスメントなら個人や私的関係)。そのあたりで親やごく親しい人がいじめのサインに気づく。家庭であれば教師よりも早い段階でサインに築ける可能性は高い。そして、発見したならば組織に対し解決を要請する。教師がいじめのサインを発見した場合も同様です。その後の組織/教師の対応については、さすがに責任がかかると思います。

意見をまとめますと、教師にいじめの全てを発見させようとする態度はどうかと思うということです。発見は、それこそ地域や家庭からのアプローチのほうがより重要だと思うのです。サインの顕在化したいじめの発見や、発見されたいじめへの対応の段階に来て、教師に責任があると言えるのではないでしょうか。いじめ発見を全て教師の責任にするのは、学校中に監視を付けるのが正しいと言っているようで、どうにも違和感です。

2 件のコメント:

大阪のオバチャン さんのコメント...

同感です。

いじめを見つけること、というのは口で言うほど簡単なことではないのだと思っています。
ではだれの責任か。一番批判しやすい教師に矛先が向くのでしょう。

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

>大阪のオバチャン さん
コメントがずいぶん遅くなってしまって申し訳有りません。

「誰の責任」といって簡単に決められることでもないですが、たしかに矛先が向くのは教師ですよね。