中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。
解釈は人によっても異なりますが、時によって異なり、心によって異なり、状況によって異なるものであると思います。同じ曲を複数回出すこともあるかも知れませんが、それは状況や時が変えたということと考えてください。
今回はニュース番組のテーマだった(らしい)、「おだやかな時代」の解釈です。歌詞はこちら。
長大曲ばかりがずらりと並ぶ、また、中島みゆきの曲でおそらく最初に国語の教科書に乗ったであろう「永久欠番」を収めるアルバム「歌でしか言えない」のトラック2です。
「中島みゆきの歌と共に生きてきた」の当該記事ではおだやかに、枠の中で生きている人だけが認められるような社会への反発、という解釈であるのに対し、「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」の当該記事では表層だけの優しさなどが横行する社会から抜けだして真の優しさを持つ、あるいは獣となるそのプロセスでの迷いを描いている、という解釈です。どちらもありうる解釈だと思いますが、私の心情などから、前者を根底に、私なりの解釈を書いていきたいと思います。
永田達三という人が著書「英語の神髄 長文読解法講義」の中で書いていたことなのですが、教育というのは、凡人によって人を凡人たらしめるものである、という言葉を思い出します。「止まり方しか習わなかった町」は、凡人たらしめるべき教育の中で凡人の枠から外れていく、鳴く獣を阻害した町でもあります。鳴く獣がいないように、普通であることを教えるのが教育であるというわけです。
私は、これ以上にもっと強いところを、マスコミなどに感じます。
「おだやかな時代、鳴かない獣が好まれる時代…」私は、この歌詞のこの曲がニュース番組のタイアップだったことが、非常に皮肉なことであると思うのです。
マスコミというのは多数決を是としなければ稼げない業種ですから、結局「鳴かない獣」を好むわけです。その中で色々な風潮が生まれていくわけです。それを皮肉ったかのように聴こえる歌詞が続きます。
「標識に埋もれて 僕は愛にさえたどり着けない」
「僕はジョークだけがうまくなった 愛を真に受けてもらえなくなった」
「僕に怯える天使たちよ 僕は君ほど強くないさ」
この3つの歌詞に共通する「僕」は、世間とは違って、愛を真剣に伝えたい人なのでしょう。それを知っている人たちが怯えるから、「毎日 Broken my heart 声も立てずに、毎日 Broken my heart 傷ついていた」のだと思います。そして、それらから身を守るためにジョークばかりを言っていた…。最後に怯える天使たちに言うわけです、はっきり言いたい自分は、はっきり言わせない、言うことを恥とみなす天使たちより、余程弱い立場になっているのだと。
ものをはっきり言わないことと、意見を持たないことは全然違うことです。普通である時、社会の枠の中にいる時、それを自分で判断しないでただなんとなく、周りがこうだからと流されるのは、私は絶対に嫌です。周囲と同じで云々ではなく、自分自身で納得する根拠、意見をもって行動したいということです。その結論が周りと同じだろうが違っていようが、自分の意見をもって行動したいのです。しかし、「おだやかな時代」は、その意見が違っているならば、許さない時代であると思います。
この歌で言えば、私は鳴く獣です。それ故かも知れませんが、生きにくい人間であるとも感じます。数年前、「運動部は文化部に比べてえらい」というような風潮に、強く反発していました。今でもそうです。部活に優劣などない、そのごく当たり前のことを主張して、それによって私を敬遠する人も多くいました。しかし、明確な根拠をもって主張する私に、同等の根拠をもって反発してくる人は誰もいませんでしたし、問うても「なんとなく」を超える返事はありませんでした。鳴く獣が、おだやかな時代に嫌われる例の一つです。
人と違うものを好み人と違う意見を持つことで嫌われる、生きにくい時代を痛烈に皮肉った歌なのだと、私はそう解釈しています。そして、この歌は20年ほど前の曲であるにも関わらず、現代にも妙にマッチしていると感じざるを得ないのです。20年では「おだやかな時代」は変わらないのでしょうか、その時代の変化もおだやかであるがために。
※ この解釈は、あくまで私の一解釈であり、正しい・誤りであるというのを書くものではありません。一つの見方として受け取っていただければ幸いです。
※ 扱って欲しい曲がありましたら、コメントでお書きください。
※ 他の解釈が載っているサイト、もしくは自分なりの解釈がありましたら、コメントでお書きください。
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