中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。
解釈は人によっても異なりますが、時によって異なり、心によって異なり、状況によって異なるものであると思います。同じ曲を複数回出すこともあるかも知れませんが、それは状況や時が変えたということと考えてください。
今回は「真っ暗けの境地」、「エレーン」の解釈です。歌詞はこちら。
中島みゆき=暗いのイメージをとことんまで追求したアルバム「生きていてもいいですか」の7番です。アルバムタイトル「生きていてもいいですか」はこの曲のサビです。
これを名曲と思えるかどうかによってファンとしてのスタンスが変わるとさえ言われる曲ですが、私にとってはかなりの名曲です。これと、この次の「異国」の2曲を連続で聴くことで、どん底まで落ち込んだ日には吹っ切れられるように思います。
あまりに暗いため、ふだん見ているサイトにもこれという解釈は見られません。
「女歌」の本にはこの基となったであろう話が書いていますが、この曲はレクイエムや追悼歌という感じではないので、やはり解釈は不明なままです。
多くの人に、あまりに多くの人に嫌われ、そして殺されてしまうエレーン(「女歌」を参考にしています)。雨の冷たい夜、何処にも行き場がなく、一人で雨の中寂しく何かを見つめているしかない。そんな、あまりにも寂しすぎる風景に、追い打ちをかけるかのように、自分はまだ嫌われる。「流れてくる噂はどれもみな本当のことかもしれない」と言われて、その噂はどんなものだったかと思い返してみれば「みんなたぶん一晩で忘れたいと思うような悪い噂」なのです。そんな、あまりに寂しい状況に、それを見ていた語り手が発したのが「笑わずにはいられない淋しさだけは真実だったと思う」という一言です。エレーンはあまりにも孤独で、その孤独はきっと、私などには耐え難いものだろうと。
「生きていてもいいですかと誰も問いたい」「その答えを誰もが知っているから誰も問えない」
最も悲惨なところは間違いなくこの部分です。”生きていてはいけない人などいない!なのになぜ、それを問えないのか。その答えを知っているから問えないのか。”と書いているブログを見たことがあります。私はこれには、”生きていてはいけない人などいない!”と言う言葉さえも虚に響く状況に陥っている、と答えます。
”生きていてはいけない人などいない!”というのが真実かどうかはわからない。けれども、それを分かりながらも、生きていてはいけないと誰にも言われてしまうとしか信じられないような、恐ろしくむごい現実が眼前に広がっている。おそらくエレーンはそこまでに孤独だったのだと思います。生きていてもいいですか、そう問うたら、生きていてはいけないとかえってくるに違いないと、そう思ってしまうほどに孤独だったのだと思います。
私もあまりにつらく、あまりに孤独を感じた時、「生きていてもいいですか」と問えば「生きていてはいけないのだ」と返ってきそうな、そんな思いにかられたことがあります。生きていてもいいということを態度で示すこと、それは淋しさを取り除ける温かい存在になることを意味すると思います。以降の中島みゆきの温かい曲の根底には、この極限の淋しさがあるのではないかと思います。
兎は寂しいと死ぬといいますが、人も寂しいと死ぬのではとよく思います。無人島に一人、私は色々な資源の乏しさ以上に、一人でいる淋しさに参ってしまうだろうと思います。
この「エレーン」と「異国」は無題のシークレットトラックを使って、他の曲から隔離されている、取り扱い注意の、孤独の極致とも言える曲です。孤独の辛さをとことんまで描いた、それがこのエレーンであると思っています。
※ この解釈は、あくまで私の一解釈であり、正しい・誤りであるというのを書くものではありません。一つの見方として受け取っていただければ幸いです。
※ 扱って欲しい曲がありましたら、コメントでお書きください。
※ 他の解釈が載っているサイト、もしくは自分なりの解釈がありましたら、コメントでお書きください。
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