ネットサーフィンをしていると、「体育が嫌いな息子をスポーツ好きにしたい」というような話がありました。そのなかの意見で、無理強いが却ってスポーツ嫌いを生み出す、ということが書いており、ずいぶん納得しました。
座学の学問ができなかったり、音楽や美術といった学問ができなかったりしても、疎まれることはまれです(音楽の場合、合唱コンクールなどでは疎まれることがあるでしょうが)。しかしながら、体育ができないというのは最も疎まれ、奇異の目で見られ、あるいは目立つことであると思います。
私は体育と美術が極めて苦手です。どちらがより苦手かと聞かれてもわかりませんが、どちらも全く手をつけたくないほど苦手ですし、またやろうとも思いません。嫌いなのです。しかし、美術嫌い・苦手をクラス中から疎まれた経験はないですが、体育嫌い・苦手を疎まれた経験は覚えきれないほどです。
できる人が良い思いをする、そのことは結構です。しかし、それによって疎まれるというのは、たまたま体育だったからという理由なのは、非常にしんどいことです。私は高校で、化学や英語、地理も苦手でした。その分野で目立とうとは思いませんでしたが、それが理由で疎まれたこともありません。体育は、苦手だからという理由で疎まれうる世界です。
私はこの、体育が苦手という理由で疎まれるというのが大嫌いです。体育が苦手であるということで、練習を強要されたりすることもあります。もちろん、学校教育レベルで、必要な水準に達していないからというのは大いに結構ですが、行事が絡み、それとは別の練習が必要になるのです。同じことを数学でやったらどうなのか、と幾度も思いました。クラス別の数学コンペティションとかをしたとき、数学嫌いは学校の水準以上に練習をさせられなければならないのでしょうか。
体育が嫌い、体育をやりたくないというのは、きっと多数派なのであろうスポーツをする人々から疎まれる存在にあると思います。これは他のことが嫌いであるより、ずっと損なことであると思います。
スポーツ好きが多いからと言って、それが万人に通じるわけではありません。世の中にはスポーツよりも、読書やパズルのほうが好きな人間だっています。それをわざわざスポーツ好きにする必要はありません。
体育が嫌いなこと、やりたくないことは、数学が嫌いなこと、やりたくないことより相当損をすると思います。その差はやはり多数派で、多数派を是とする風潮を何とかしない限り、私のような体育嫌いは損をするばかりなのだと思います。
人間には得意不得意があります。それは致し方ないことであるのだから、それを無視して行事のために練習を強要し、好きにさせようというのは、あまりに無慈悲です。体育嫌いの意見に過ぎませんが、体育嫌いを疎むのではなく、しゃーないと許すぐらいの空気がほしいと思います。体育が得意な人にも、苦手なものがあると思いますし、それは出来れば「しゃーない」で済ませて欲しいものではないでしょうか。
2 件のコメント:
人間はみな違います。運動能力や音感は、生まれつきの部分が大きいです。体育・スポーツを選択しない・拒否する権利があってしかるべきです。
努力は尊いことでしょう。肝心なことは、何に対して努力を傾けるか、それは個々人の自己決定にゆだねられるべき。苦手な分野を切り捨て、得意分野に全精力を集中する生き方は、環境や地球にも人にもやさしいと私は思います。
>匿名の方
コメントありがとうございます。コメントのお返事が随分遅くなってしまって申し訳ありません。
世の中は分業で、理科が出来ない人が化学工業の仕事をしているとは考えにくいし、経済を知らない人が経営コンサルタントをしているのもおかしい気がします。そのように、世の中の分業制こそが「得意分野に全精力を集中する生き方」を助けるものだと思います。
能力の差を認め、各々の得意なところで活躍してもらうというのが大切なのだろうなと思います。私自身、自分の得意を活かして生きていくよう心がけています。
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