お茶会を開きます。しかし、それの招待メールを送ったところで来てくれる人は大変少ないのです。
何かの会合をするとメールを送ります。参加の確認をとっても、メールの返信なんて来やしません。
能動的に誘いをかけても、ほとんど来てくれない。そう思って、自分のところに来た誘いを振り返ると、私のところに誘いなんてちっともきていないことがわかります。
ゲームをしよう、と抽象的な誘いはあっても、実行するときに誘うのは私。
帰省の時に遊ぼうと言っても、いつどこで待ち合わせて何をするか、その相談でメールをはじめに送るのは私。
いつか食事に行こうと思っても、日にちを決めて交渉しだすのは私。
誘われる・持ちかけられる・話しかけられるなんてことは、全くないに近いのです。自分の誘う回数に比べれば、本当に、あまりに少なくて、受動が嫌いなのではなく、受動がないということに気づきます。
誘われることなく、誘っても無視される。そんなに寒い日々で、私は何に温かみをかんじろというのでしょうか。自分から話しかけることはあっても、自分に話しかけてくれる人は殆どいなくて…。もしも私が、一日誰にも話しかけないように、誰かから話しかけられなければ返事をしないように心がけて生活すれば、私は一言も発さずに一日を終えるのではないかと思います。
されない日々を送っていれば、されない身であれば、孤独感は自ずと生まれてきます。
私は誰からも誘われない。
私は誰からも話しかけられない。
私は誰からも必要とされていない。
そう思うのです。
幾百幾千の言葉をもって必要性を説かれたとしても、普段の態度はそうはいっていない。誘われもせず、話しかけられもしない人間が、どうして必要と言われて受け入れられようか。
あからさまな憎しみよりも、無関心のほうがよほど相手に深い傷を与える。ハリーポッターの物語でダンブルドアが言っていた言葉であり、あちこちで言われていることですが、まさにそのとおりだと思います。色々なことで「されない」身であることが、辛いのです。
気づかないふりをして生きていても、やがてそれは気づくような大きいものになってしまいます。そして、誰からも必要とされていないということを思ってしまいますし、自分が誘いをかけることへの恐怖感すら出てきます。「私は誘っているけれど、それを人は疎ましく思っているのではないだろうか」と。
二隻の船を聞き、歌姫を聞く中で、寂しさというものが如何に逃れがたいものかを実感します。そんな中で「されない」身である自分は、ただずっと孤独に居るしかないのでしょうか。誰からも誘われない自分が、誰からか必要とされる日は来るのでしょうか。
もしも今、私が何かの事故に遭い、死んでしまったら、その告別式に、儀礼的以上の意味を持って、別れの意を持ってやってくる参列者は、一体幾人でしょうか。ほんの一握りではないだろうか…と思うのです。
絆を…そう言って色々なアプローチをかけています。でも、それが多くの人にとってただ疎ましいだけのものだったならば。それを否定できず、誘われないままに寒い日を過ごす自分がいます。誰からも誘われず、誰からも話しかけられない。必要とされていないことを感じるのに絶好の機会は、今日味わう必要はなく、明日でも明後日でも、しばらく味わえる。…そんな今が嫌で、でもそれは自分ではどうにもできないから、今日も泣き寝入りです。
2 件のコメント:
コメント欄使いやすいです。
有難うございます。
思ったことも言わなくちゃ伝わらない。
考えも示さないとわかってもらえない。
意図せず傷つけることを恐れて
何も行動しなかった自分。
無関心に対して無関心であることで
心の平安を保ってきた自分。
言わない、しない後悔より
言ってしまった後悔、してしまった後悔。
そんなことを思いました。
達哉んさんのまっすぐさのお陰で
およそ意識にも上っていなかった
普段の自分を見直す、そんな機会をいただけたことに感謝です。
>大阪のオバチャン 様
コメントありがとうございます。
私がまっすぐかどうかは…ちょっとわからないですが…。
以心伝心の態度って難しいものですよね。いつも伝わるかと思えばそんなことはないし、逆に伝わってきたと思うことが正反対だったり…。
相手の行動に意味が隠されている、感情が隠されていると思うから疲れてしまいます。「やらない」ことに最も多くそれがあらわれます。自分が誘った時に、自分のもとには来ないで、他の人の部屋でくつろいでいて、他の人は誘っていない、なんて状況だと、大変辛く感じます。
自分から誘ってばかりだったのですが、ここ数日は逆に部屋に人が押し寄せてきて、いつも満員御礼のような状況。嬉しい限りでした。
来てもらえる、話しかけてもらえることは当たり前ではなく、その事自体に嬉しさがあるんだなぁと思います。でも、自発的な行動というのは、怖いし、しんどいですよね。
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