2015年9月3日木曜日

嫌われて嫌われて得たもの

先日、可愛がっていた後輩から、もう付き合うのはたくさんだという旨の連絡がきました。私がどうこう言うこともできませんから、わかったと答える他ありませんでした。

このブログにも再三書いたとおり、返事も声掛けももらえない私だから、嫌われると感じるのは珍しいことではありませんが、落ち込みますし、悲しいものです。無論、はっきり言わず適当にごまかして嫌ってくるよりは、コスト面でよほど楽ですが。

人当たりのいい性格でもないし、人口の多い趣味を持っているわけでもないので、別にすべての人に好かれようとは思っていません。自分から嫌うことはできるだけ減らそうと思いますが、自分が嫌われても仕方がないことだという思いがあるのも事実です。ただ、仕方がないこととそれが嬉しいか悲しいかは話が別です。

そんな悲しい思いを幾度したか、当然数えることなどできません。好かれることより嫌われることのほうがずっと多い人間ですから、そうして悲しみ落ち込む夜だって多々あります。

そうやって嫌われて嫌われて、自分に関わる7〜8割の人間は敵だとさえ思えるぐらい嫌われて学んだこと、得たものだって有ります。

1つは、それだからこそ、自分のことを好いてくれる人は大切にしようということ。もっとも、好いてくれると思っていても単なるこちらの思い違いということも多々あるから、大切にと態度で示しても空振りになることもまた多いですが。

1つは、基本的に「人を見たら盗人と思え」ということ。事務的なあるいは業務的なことでも限られた人以外を信用すると痛い目にあうと日頃思っていますが、人間関係でもそうだと思っています。性善説を唱えられる人は、きっと私みたいな嫌われてばかりの人生ではないのでしょうね、羨ましい限りです。

最後の1つは、誰も自分などいなくても困りやしないということ。別に私がいなくたって、親族と恋人以外は誰も困りやしないのです。言い換えれば、その人たちがいなければ私も死んだり消えたりして差し障りないということです。苦しいという思いで手紙を書いたり記事を書いたりしても、誰も助けてはくれないから。それどころか、返事すら来やしないから。

私がひねくれている等々、様々言っていただくのは結構です。寧ろ、これだけの背景で長じて、それ故のひねくれだから、一筋縄ではいかないと、ただそう思ってもらえれば。

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