2013年7月13日土曜日

大暑ももう少しだから

大暑がもう少し。つまり、暑中見舞いを送りたくなる時期です。急に暑くなりましたから、送らないとと思うようになりました。そこで、今年もまた自戒を込めて、どんな気持ちで望みたいか書いておくことにしました。

手紙を普段から書いている私であっても、やはり季節柄の挨拶として世間的によく書かれるタイミングには、心構えが変わってきます。と申しますのは、やはり古くからの習慣の中に、「習慣だから」で済ませないための工夫を取り入れねばならないと感じるからです。古典文学でも、「季節柄の挨拶しか送ってこない人は興ざめだ」と言われ(出典忘れました、どなたかご存じの方お教えください)、習慣故の行動ととられては(送らないよりよほど嬉しいものの)なにかつまらない部分を残してしまいます。

一方、その古くからの習慣である暑中見舞いや残暑見舞いには、相手を思いやる気持ち・心遣いというものが込められています。手紙の醍醐味はそこにあると思いますし、受け取った時のうれしさもまた格別です。ずいぶん古い時代でも手紙は嬉しいものですが、今の時代もやはり嬉しいと感じてくれる人が多いのではないかと考えています(が、最近は嫌がる人もいるとこのことで、少し悲しくもかんじます)。枕草子などでも手紙について書かれている部分は多く(参考)古来より手紙という媒体がいかに人に馴染み深いかがわかります。

そんな手紙ですから、やはり一つ一つ心をこめて書いていくのが基本です。心をこめた手紙を、届いた相手が嬉しいと感じてくれるのであれば、おそらく私はその人と仲良く出来ると思いますし、また、そんな人だけと付き合えばいいとさえ感じます。嬉しいと感じてくれる人がいるという、その嬉しさ。私は暑中見舞いを書く時に、そのことを意識したいと思います。

今、暑中見舞いや残暑見舞いは、少なくなったと言われる年賀状でさえも比較にならないほど少なくなっているようです。作法を守った例文だけを印刷して出すような物でさえも見られなくなってしまい、これらの「見舞い」はもはや廃れたと言い切っても過言ではないでしょう。
だからこそ、私はこの習慣を頑固に守りたい。習慣が習慣たるために出すのではなく、本当に心をこめて、きちんと見舞いになるように書きたいと思うのです。決して数は届かないであろう暑中見舞いの中の一通になることは、私のことを思ってくれる人々に少しの幸せを運んでくれると信じています。

暑中見舞いと残暑見舞いを書く時期です。習慣だから書くのではなく、しあわせ運べるように書くのです。その事をいつも頭に置いて、便箋やポストカードを買い、認めていこうと思います。

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