年賀状を書いています。私は毎年15日に出すことにしていますから、タイムリミットまでは後1週間です。
年賀状の風習が廃れて行っているのは紛れもない事実のようで、書かないと言い切る人も随分増えてきました。年賀メールについてもいろいろな意見が出ていますが、そんな辺りをちょいちょい書きたいな、と思いました。年賀状を書かないことの是非について、というべきでしょうか。
年賀状と年賀メールの違いは媒体です。新たな媒体であるメールは、手紙に比べて気軽にかけて、またコンピュータの文字ですから、「ないがしろにされている」とか、そこまで行かなくても「気持ちがあまりこもっていない」「気持ちが伝わってこない」という人もいます。年賀状にしても、印刷だけだと同じ事を思う人は多いようです。パソコンや携帯ではなく、万年筆と紙という媒体で書いたほうが心が伝わると感じるのでしょう。異論はありません。
ですが、これはあくまで媒体の違いに過ぎません。年賀メールしか送らない人も、年賀状を一筆一筆認める人も、「年賀の挨拶」という行為そのものに代わりはありません。それが相手にどう伝わるかという点では、差異があるかもしれませんが。
書籍か電子書籍か。CDかDL販売か。これらはあくまで媒体の違いに過ぎないという好例です。あるいは、もっと多彩な例としては
・意見を伝える方法として、ネットもあれば投書もあり、デモなどもある。
・交流を深める方法として、食事会もあればスポーツ大会もあり、茶話会や趣味の会もある。
・情報を得る手段として、テレビもあればラジオもあり、新聞やネットもある。
などがあります。
さて、翻って年賀状を見てみると、これも年賀の挨拶をどう伝えるかという「媒体」の差異に過ぎないものです。その伝え方に不満を抱いたとしても、私は他の伝え方を押し付けることはできないと思います。なぜなら、年賀状を書くか、年賀メールを書くかは、その人が自身の中で決定した媒体=手段というだけだから。その手段についてとやかく意見することはできても、押し付けることには意味がないと思います。「年賀状を書きましょう」ではなく、「年賀状で書いたほうがいい、なぜなら…」のほうが良いと、そう思います。
相手がいるものですから、手段はよく考えて選んだほうが良いと思うのですが、あくまで媒体であるのだから、それを押し付けることはない。先の例について言えば
・意見を伝えるためにネットで書こうが投書しようが、それは個人の判断に委ねられる。
・交流を深めるために、各種の会合のうちどれに参加するかは自由だ。
・テレビで情報を得ようが新聞で情報を得ようが勝手だ。
という事になります。
媒体の違いによる批判はナンセンスという点について考えてみます。飲み会に参加せずに茶会に参加して交流を深める人と、逆に、飲み会に参加して茶会に参加せず交流を深める人がいたとします。どちらのほうが良いか、と聞かれてもそんなの答えようがありません。日本では飲み会のほうが規模が大きいかもしれないし、イギリス文化の所では茶会のほうが規模が大きいでしょう。しかし、それを図れる尺度はないのです。ただ、その人がどういう手段を好むかだけの違いです。そこに気付かずに「飲み会強制参加」とか「茶会強制参加」とかされても、嫌な人には交流を深めるどころか不快な思いをさせるだけです。媒体の違いを批判しあっても仕方ない。
ですから私は、年賀状だろうが年賀メールだろうが、新年の挨拶をしようという心が伝わるならば、どんな手段であっても良いと思っています。それについていちいちとやかくいう必要もないと。
その上で、「年賀状をメール等の手段で送ることの是非について」問われれば、こう返します。
「一筆ずつ心を込めて手書きした年賀状は、やはり一番心を伝えやすいものだと思う。だから、心を伝えたいと思う相手には、やはり一筆ずつ手書きで年賀状を書いたほうがいいと思う。でも、もう何年も会っていないような人で、疎遠になってるなら、メールやSNSなんかでもいいのではないか。」
私は年賀状を書きます。相手に心を伝えたい、それには手書きの年賀状が一番だと思うから。でも、メールやSNSでの挨拶も、相手の心象についてはどうかわかりませんが、選択肢として取り入れるなら、それはありだと思います。実際私も、それらの手段を選択的に取り入れていますから。
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