「私はあんた本人じゃないから自分の基準でしかものを言えないけどね、偉そうなこと言っちゃえば 今どういうところを通ってきたかっていこうとよりも、そこで何をあんたが吸収してきたかって言うことだと思うわけよね、理想論かもしれないけど。でまぁ、そら、周り中の全ての人間に貴方の良さをわかってもらおうとか言うのは無理なことだけど、わかってくれる人もどっかに一人はいるかも知れないとか、誰かにわかってもらおうとするとか、そういうふうに思うことだって、できない事じゃ、ないだろうか。」
これがわかる人は中島みゆきの相当なファンではないでしょうか。名曲「ファイト」を生むことになった、「中島みゆきのオールナイトニッポン」への投稿に対し、中島みゆきがコメントした言葉です。もともと「中卒やから仕事を任せられない、って言われてしまった」という投稿でした。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と言っても、なかなか通じないようです。結構有名な故事成語であり、中高の教材などとしても知られているものとばかり思っていたのですが、それが意外と。
中島みゆきのコメントには、この「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の考えが入っているような気がします。勿論、この投稿をしてきた人が鴻鵠かどうかは測りかねますが、しかし、投稿者のことを理解しない上司の人たちは、ことこの件に関してはある種の燕雀なのかもしれません。
高校時代、受験参考書の「英語の神髄」という本に、「凡人が凡人たる教育を施すから、感性豊かで個性的な子供の良さが失われ凡人の大人が生まれる」というようなことが書いてありました。燕雀は鴻鵠を育てられない。この著者である永田達三先生は、鴻鵠たる先生だったように思いますが、それは背景にこの考えを持っていたからなのではないかと思います。
小学校から大学に至るまで、多くの先生にあってきました。その中には、知識に長じていても人間的に合わない人も少なからず居ましたし、逆に説明はあまりうまくはないけれど人間的に大変尊敬できる人も居ました。その先生の間でなにが違うのかと考えてみれば、やはり「理解して教えよう」としてくださる点ではなかったかと思います。
人間的に尊敬できる、まさしく鴻鵠のような先生は、逆に燕雀たることを理解して教えられているように思います。つまり、「自分は燕雀であるから、鴻鵠は育てられない。だから、せめて燕雀の枠に当てはめる事無く、助けられるように教えよう。」と考えていらっしゃるように思えるのです。そして、そう考えているからこそ、その先生は鴻鵠たるのではないかと。
鴻鵠たるものを燕雀は育てられません。自分の長じている分野についてはともかく、人間的な部分については、自分を燕雀として、相手を理解して導くことが大切なのではないかと思います。
人間的に合わない人もいておかしくないし、「我以外皆師也」といえども師と言いたくない人もいるのが偽らざる実情ではないかと思います。そんな時に、中島みゆきの言葉をもって言いたい。
「わかってくれる人もどっかに一人はいるかも知れない。」
「そんな、わかってくれる人を師とすれば良い。」
だから逆に、人間的に師となるべき立場ならば、
「弟子をわかってあげられる人でなければならない」
「全員をわかるのは無理だから、自分を踏み台にしてくれそうな弟子だけでいいから、理解して育てよう。」
「分からない、理解できない人を無理に育てようとしない」
それが、燕雀の教育をしないために、必要な姿勢ではないかと思います。
「我以外皆師也」は正直しんどい。
だから。
「わかってもらえる人を師とせよ。わからない人を弟子とするな。」
そんな教育のほうが、もっと鴻鵠の出る教育になるのではないでしょうか。
5 件のコメント:
理想論ですね。でも、すばらしいです。
ただ、今のスピードで世の中が動いていると、そういう教育は不可能に近いですね。そこで、その考え方を拡張して、私は自分自身を日本一の反面教師だと自称しているわけです。
このオッサン、アカンわ、と生徒が思えば、それで目的は達せられるのですよ。それによって自分が師とすべき人を探す旅に出られるのですから。
20年先にはまともな教育が出来るような国にしたい、と国民みんなが考えて、それこそ今日のご飯を減らしてでもそのためにリソースを割くぐらいのことをしなければダメです。20年後の日本は世界の最貧国ランキングに名を連ねている可能性が高いですね。経済的にも、そして何より文化的な面で、ね。
そうですかね.学校教育というものは,燕雀たる人間にも,鴻鵠たる人間にも,最低の箍を提供しようというのが目的なのではないでしょうか.例えば高校を出たというのであれば,初歩の不定積分くらいは,初歩の古典くらいは読めるようになれよ,ということです.そもそもただの人を凡人までグレードアップさせることが学校教育だと思っています.
鴻鵠たる人間は飽き足らず,師を他に求めることになるのでしょう.幸に私は「我が如くなれ」という師がそこら中にいましたので苦労はしませんでしたが.
繰返しになりますが,minimumを教えるのが学校教育の限界だと思います.そして「皆に判ってもらえる」は甘えに過ぎないと思います.「理解できない人」でもminimumまで育てるのが学校教育の役割だと思うのです.
>つきみそう さん
仰るとおり、「人間性の教育」の面で、自分の理想を書いたつもりです。それでも「我以外皆師也」よりは、実現可能性が高い理想だと思っています。
経済的、文化的に、20年後に最貧国・・・実際そうなるのじゃないかと思っています。教育を軽視してはいけないと、中学の塾の先生が言っていました。その先生、「織田信長や豊臣秀吉は教育を軽視した故一代限りで会った」「徳川家の教育は素晴らしい。武田信玄も良い」などと、歴史に例を求めておられましたが、教育は未来を開く、一番重要な部分と思うのですが…。
末筆ながら、先生は私にとって人間的な師であることを付記しておきます。
>volcanologue さん
すいません、「学校教育」に焦点を当てたように読めましたら、申し訳有りません。学校教育における教科目の学習については、私もvolcanologueさんの言うとおり、最低限のレベルまで持っていくべきだと思いますし、またそれが学校の役目だと思っています。
ここで述べたかったのは、学校にとどまることのない、人間性、人格の教育の面です。人間性の教育では、minimumの人間性というものはありません(規範意識など、モラル的なところは「道徳」という教科目があります)。人間性を学ぶならば、その師は自分で選べば良く、同時に、万人から人間性を学ばれる人間にはならなくて良い、というのを述べたかったのです。
固く書いたのですが、ものすごく砕いていってしまえば「人間性なんて誰からでも学べるのだから、好きな人から学べばいいんじゃないの?」という事です。それも、学校に限る必要もなく。
誤解を与える文章で失礼いたしました。
誤読したのは私の方かも知れません,先に謝っておきます.しかし教育というと私にはあまり良いイメージがわかないのですよね.学ぶならば良い.しかし教育は受け付けない.その理由について説明しようと思う.
抑も教育とは,人をして何か「都合の良い」状態に持って行くことと認識される.学校教育なんてその最たるものであって,例えば,貴君が指摘したように「道徳」の科目がないと誰が困るのか? 社会が困るのです.そういう意味で,教育とは一種の強制を伴う(或いは矯正を伴う)行為だと認識しているわけです.
一方,学ぶについては,自発だと認識される.その意味では師は自由に選ばれるべきであるし,そうでなければ自発たる意味がない.そして逆もまた真であるだろうと思います.
つまり教育という単語と学ぶという単語の間で,双方に miscommunication が起きていたのではないでしょうか.
>volcanologue さん
なるほど!私は教育というのは「教育を受ける自由」という言葉のように、強制/矯正ではなく、自由な学びだと捉えておりましたので、その違い故かもしれません。
volcanologueさんの言うような矯正の教育は「自由に選んで受けられる教育」ではなく、「受けさせられる教育」みたいな感じですよね。義務教育の教育とでもいいましょうか。
正直、私も義務教育ないしそれに似たような意味の教育となると、良いイメージがありません。そして、矯正の教育の役割は、やはり最低限のことを教えることだろうと思います。
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