中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。
解釈は人によっても異なりますが、時によって異なり、心によって異なり、状況によって異なるものであると思います。同じ曲を複数回出すこともあるかも知れませんが、それは状況や時が変えたということと考えてください。
夏特集の第3回は「阿檀の木の下で」です。
歌詞はこちら。
この曲はメガヒット「旅人のうた」の2nd versionや吉田拓郎に提供した「永遠の嘘をついてくれ」が入っている名アルバム「パラダイス・カフェ」の10番です。そして同時に、ちょうど今、夏は夏でも、私のこの連載ではこの日、実際は8月15日に最もふさわしい曲なのだと思います。そもそも私は阿檀が何かわからなかったのですが、Wikipediaによれば植物のようです。
前回とはうってかわって、非常に穏やかな曲です。私のイメージは、夏の海に、木陰でひとり佇むような、そんな感じです。
阿檀の木は、東シナ海周辺に存在する木のようです。「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」の記事では沖縄か、もしくは架空の島かもしれない、と説を展開しておられますし、また、「中島みゆきの歌と共に生きてきた」も沖縄のうたとしています。それにたりうる根拠もおおいにあるのですが、私はまた別の説として、東シナ海の、日本の領海内にある、何処かの無人島ではないかと思うのです。ただ、そんな島があるかどうかは定かではないので、そういう意味では、架空の島という説にも与する意見です。
その東シナ海にある無人島は、沖縄からそう遠くないところにあって、かつては人が住んでいた。ところが、「遠い昔のあの日」、何かが起こって、その島は帰れぬ島となった。その何かは、後ろにある「戦軍に負けて貢がれた」から考えれば、戦争の惨劇の一つではないでしょうか。戦争によって、住む人がいなくなった島は、そのまま、日本から、沖縄と一緒に貢がれた。しかし、その土地はその惨劇故に、もう人間が住もうとは思えない土地だった…。
そんな無人島の海岸に来て、一人、阿檀の木の下で佇んでいる。この島に住む人はもういない、「みんなみんな阿檀の木になった」。人間がもういないから、「山の形は雨風まかせ、島の行方は波風まかせ」なのです。そして、それを示すかのように、最後に一言響きます。「主の見捨てた貝殻ばかり」
貝殻は、貝の住処であり、それが見捨てられている。同じことが、この島という住処を見捨てた人間という風に想像されるのです。こんな、人間の見捨てた様子が、沖縄とは少し違うな、と思います。
戦争もそうですし、震災もそうですが、そのひとつひとつの跡は、何らかの感情を抱かせます。ただ違うのは、戦争はそれを起こす愚かさを悔いるのに対し、震災はその脅威に畏敬の念を抱くのではないか、ということです。
この曲を沖縄ととった意見は多いし、そう解釈するのも至極自然だと思うのです。しかし、その後ろに、架空のものかも知れませんが、無人島の存在を考えたとき、我々は戦争の悲惨さをもう一度、抱くのではないでしょうか。
沖縄の人びとの代弁だけにとどまらず、より大きな視点で、反戦の歌として、私はこの歌を聴いています。沖縄の人びとという第一の意味と、反戦という第二の意味が、同じ歌詞から想像される2つのイメージに結びつく、二重の解釈を持つ歌ではないかと思います。
※ この解釈は、あくまで私の一解釈であり、正しい・誤りであるというのを書くものではありません。一つの見方として受け取っていただければ幸いです。
※ 扱って欲しい曲がありましたら、コメントでお書きください。
※ 他の解釈が載っているサイト、もしくは自分なりの解釈がありましたら、コメントでお書きください。
2 件のコメント:
沖縄かもしれないし・・・ということで。堀江貴文さんが、尖閣諸島を中国が欲しがるならやってしまえば良い、なんて趣旨の発言をして叩かれておりましたが、沖縄には、平和が保たれるならそれでも良い、と考えている人が結構いるのだそうです。中継ぎ貿易で栄えた琉球の末裔としてはそれは当然のことで、自分の周りの国、どこも敵に回さず、周りの国が栄えることが自分たちも栄えることにつながる、という、きわめてコスモポリタン、進んだ発想ではないでしょうか。
戦争とか大きく構えなくても、本当に自分の身の周り、自分の足下、そういうところを大切に、身の丈に合わせて、誰も傷つけずに生きていく。言うのは簡単ですがとっても難しい、これを琉球の人は500年以上前に実践していたのだと思いますね。その国を武力で自分のものにした我が日本。果たしてどちらが本当に賢く、優れているのでしょうか。
>つきみそう さん
ありがとうございます。
日本と琉球のどちらの人間が優れているかはわかりませんが、当時の支配者層のどちらが優れているかという話であれば、私は琉球に与します。自分たちの思想に応じた平和は素晴らしいものと思います。
平和といっても幾つもありますよね。強制的にしたがわされているだけの平和や、誰しもが納得するような平和、そして土地は荒れ果て、生命は全くなくなった後の平和。この、二番目に書いた平和をという点で優れているのだと思います。
ことこの歌に関する限り、私は反戦歌としての色合いを強調する解釈としています。それは、中島みゆきも私も、沖縄の出身でもなく、沖縄の人の代弁などできないのではないか、と考えるからです。
沖縄かも知れません。そう解釈する人も多くいます。そして、その解釈からは、沖縄に対する思いを読み取れる。
私は、その解釈に背を向けました。それによって得た、徹底的な反戦歌という解釈を、私は気に入っています。
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