2011年7月29日金曜日

暑中見舞い「おかえり」に思う

大暑には暑中見舞いということで、私も例にもれず暑中見舞いを出しました。それが約一週間前。そして、それから返事が来はじめています。

それらの暑中見舞いに、メールもハガキもありますが、おかえりと声をかけているうちに、ひとりひとりのことをもう一度思い出している自分に気が付きます。

暑中見舞いは自分が他人のことを思い出して書くところに意義があるのだと思います。相手を気遣う、相手に近況を知らせるという気持ちがないのであれば、それは虚礼になってしまうのではないでしょうか。

ですが、受け取る側にも、同じ体験が与えられる、それが暑中見舞いの…いや、手紙全般のいいところだと思います。なにか手紙をもらったとき、あるいは久しぶりのメールをもらったとき、相手のことをふと思い出すのではないでしょうか。この、思い出すというプロセスが大切なのだと思います。

「人は一生のうちに、一体どれだけの人に出会うのでしょうか」使い古された表現に、私はもう一声かけます。「人は一生のうちに出会った人の、どれだけを覚えていられるのだろうか」

忘れて、もう音信不通になり、きっと出会うこともなく、出会っても出会えないような人は、その人にとって故人です。一方、暑中見舞いが来て、その人を思い出すとき、その人はまだ、貴方の心の鬼籍に入っていることはないのだと思います。

手紙を出すときに、私はいつも、「私にとって、貴方は鬼籍に入っていません」ということを伝えようと思っています。そのことが言外に伝わり、相手から帰ってくる手紙に「そういう貴方も、鬼籍に入っていませんよ。また会いましょう」という気持ちがあるのを知り、嬉しく思うのです。

心の鬼籍と、本当の鬼籍が、できるだけ一致するようにしていきたいと思います。

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