言葉はそれを発する人を特徴付け、あるいはそれを発する人の方向性を決定すると思います。それは周囲からの目線に真っ先に顕れるものであり、次いで自らの人格形成に携わっていくものだと思います。
普段、できるだけ丁寧に話すことを心がけています。まず、罵倒語は使わないこと。次いで、命令形を多用しないこと。そして、言葉を吟味すること。
私にとって、先の三ヶ条は金科玉条であり、高校以来ずっとこれを心がけています。それ故かもしれませんが、私が話すときに「達哉んは「俺」というべきでない。1人称は「私」が良い」という人を始め、「手紙を書くときには達哉んに聞くといい、言葉遣いなど直してもらえるから」という人、挙句、「フォーマルなメールの添削は達哉んに…」という意見の人もいます。私は別に取り立てて言葉が美しい訳ではないと思っているのですが、普段の心がけが効を奏しているのではないかと思います。
日々の言葉遣いは周囲からの目をかえ、環境をかえ、自らをかえます。イメチェンと言って外見を変更する人は、それに応じて言葉遣いも努めて変えてみると、うまくいくのかもしれません。私が古いのかもしれませんが、スポーティブで髪の毛も染めているような人が「僕」というのは、何か違和感があり、「俺」という方が似合うように思います。
言葉の習慣は自らに大きな影響を与えます。自分がなりたい方向に近づくような言葉遣いは、自分を憧れに一歩近づけるのではないかと思います。
2 件のコメント:
分かります。
上品にといっても、お高くとまったのとはちょっと違う、やわらかい言葉遣いをするのが理想です。
達哉んさんの思いとも通じるところが有るかと思います。
実に個人的な話で恐縮ですが、会社で後輩をクンづけで呼ぶことが私には出来ません。
ちなみに人が言う分には全く気にならないですし、
自分自身は名字呼び捨てでもなんとも思わないのですが・・・
>大阪のオバチャン 様
ありがとうございます。
丁寧な言葉遣いをすること、言葉選びを吟味すること…。それが日々の心がけです。
後輩をクン付けで呼ぶ人は、自分の周囲含めてもわずかです(でも、私は君付けで呼ぶ人ですが)。
呼び捨ては乱暴と同義ではないと思いますし、寧ろ親しみすらわくものだと思います。きつい調子でなくて、柔らかい調子で呼び捨てする、というのも大事なのかもしれません。それこそ、大阪のオバチャン様がおっしゃることでは、と思います。
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