2011年2月21日月曜日

時は流れていくけれど、この眼前の寂しさのために流れているのではない

タイトルは何かの漫画の言葉から。何の漫画かは忘れてしまいましたが。

友人と話していたときにふと思い出した言葉です。時が経つにつれて仲が良いと思っていた友人ともいつしか離れていく…。高校の頃には比較的多くの人と話していたつもりですが、その中で今も連絡がとりあえているのは半分ぐらいではないかと思います。

何人もの人から、友人が多いと言われます。実際、ただ話すだけの友人ではなく、自分のことを心配してくれる友人がいます。もしも私がこの後すぐに死んでしまったなら、多分葬式には参列してくれるのではないだろうかと思う友人がいます。

そんな友人であっても、時が経つと疎遠になるものかもしれないと思うのです。18年来の幼馴染がいますが、彼とはもう全く違うステージです。時折話していて、先程話したような関係だとは思いますが、これがいつまで続くかはわかりません。とはいえ、なんだかんだあっても互いに色々話しているので、まだまだ長く続いてくれそうですが。

時がたって、我々は人のことも忘れてしまいます。10年後、20年後に、自分の中の「友人」はどれほど変わっていることでしょうか。新しい人がいるかもしれません。でも、その新しい友人は決して旧友の代わりにはなりえないし、また、代わりとして捉えるべきでもないのです。唯一無二、かけがえのない存在たる友人ですが、それでも疎遠になってしまうのが寂しいと思うのです。

何人かの年賀状には、こう書きました。
「時は流れて、互いにいるステージは変っていくかもしれないけれど、会う機会は減るかもしれないけれど、今年も会えたらいいですね」と。
数年前、友人たちに送る年賀状に、ひとつのキーワードを決めました。
「貴方が英雄たらんことを祈ると共に、永友たることを心より望んでおります」
永友、もちろん造語ですが、ずっと縁ある人間であろうという意味です。絆ある人間であろうという意味です。ヒーローであることはそれぞれの目標であるかもしれませんが、それだけにとどまらず、私にとっての永友であって欲しいという、大変わがままな文章です。

時は流れて、私はもうあわなくなった人に思いを馳せます。どこかの街角であったとしても、きっと声もかけないことでしょう。それが彼だと言われればきっと思い出すのでしょうが、そんなこともなく過ぎ去っていくのでしょう。人が永久欠番である限り、私は忘れたくないですが、人間の忘却はそれを無視します。それでも、その存在はきっとどこかに残っていて、それだから人間は時の流れにさびしさを感じざるをえないのだと、私はそう思います。

時は寂しさのために流れているのではないけれど、人間の性質上、時は寂しさをつれてきてしまいます。そして、それを持っていくことはまれ。大好きだった、今でも忘れたくない、10年前に他界した祖母ですら、もう声を忘れてしまったのですから。

寂しさが嫌だから、私は多くの友人を作り、多くの友人とずっと仲良くしようとします。でも結局、それは見果てぬ夢で、また寂しいからと同じ事を繰り返すのです。そんな中に、幾人か、永友がいて、私は彼らが居るから生きていけるのだと思っています。

寂しがり屋の裏返しが多くの友人で、それが結局新たな寂しさをつれてくる、そんなスパイラルの中に私は生きているのです。幾人かの「えいゆう」のおかげで。

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