物理量に対して、その誤差が0.1%程度であれば無視できるという場合があります。その一方で、ローレンツアトラクタのように、小さな誤差であっても無視してしまうと全く違う解になるようなものがあります。前者のように扱っていい問題と、後者のように扱うべき問題には明確な違いがありますが、そこで絶対に後者のように扱うべきなのが、人間に関する問題です。
我々一人ひとりは、地球上に全人口に対して考えれば、0.000001%にもなりません。であれば、それを無視しても良いのか、と。仮にその増減を無視しても良いと仮定すると、とんでもない結論が導かれます。「1人ぐらいの増減は無視しても良い」ということから、人を殺しても問題がない、という極論に至ります。
あくまでも極論です。しかしながら、「そんなモノはただ一人だから」と無視するだけの、二律背反的な多数決には問題が出てくる、という風に思います。多数決の原理などといいますが、要は少数派の意見が取られないということ、そしてその少数派の意見は「無視」されるのです。
少数派意見の怖いところは、人間の認識上、少数とみなされない人数であっても、多数決の原理の前では同じということです。過半数決定、というのであれば、99%が賛成で残り1%が反対であろうが、51%賛成で残り49%反対であろうが、結論は同じなのです。
量が少ないから無視をする。これは物理過程などで、理論上必要な場合には行わなければ議論が進展しません。しかし、そこには十分な考察が必要である、というのが人口の例から言えます。
その怖さを忘れて「無視して・・・」とあっさり書いているうちに、人間を無視するということを覚えてしまうのは怖いことです。そのことを理解した上で「無視する」ことを勉強しなければならないと思いますし、いつ、どこで無視して良いのか、そのことを真剣に考えるべきだと思います。
少数といえば、昔、1/100は皆たいしたことがないと感じるが、10000/1000000は結構な人数である、と感じる、という話を聞いたことがあります。どちらも約分すれば同じ値なのですが、この「人数の差」は、1人であれば無視してよく、同じ割合でも母体が大きくなれば無視してはならない、ということを意味しているように思います。単に母体の大きさだけで無視すべきかどうかを、人間が知らず知らずのうちに持っている、その恐ろしさを痛感しました。
村八分は非常に怖い刑だったといいます。その根底は「無視」にあります。我々人間は、無視するということの怖さを考えて、それを常に意識して、その上で無視せねばならないと感じました。
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