2010年8月31日火曜日

帰省を終えて

私の帰省が終わりました。ちょうど夏の終わりという感じと共に帰省の終わりでした。まだ暑い日は続くようだけど…。

帰省の時には、少ししんどいことがあるのもわかっているのだけれど、それ以上に懐かしい思いが多く、普段の自分の寂しさと帰省の時の友人の温かさへのうれしさに涙してしまうことも少なくありません。白髪も随分増えました。帰省した時の、つかの間人を信じれば、もうしばらく頑張れる、というのが本当にしっくり来る表現です。

普段の生活の周りの人が嫌なのではありません。ですが、私の過去を知っていて、その時と今との違いを見て、また、私のもっと輝いていた時期を思い出させてくれる、それは今の生活の周囲の人に出来る芸当ではありません。帰省の時に、私自身が小さい頃から付き合っている友人だからこそ出来る芸当なのです。

昔は神経質という言葉が全く似合わない人間でした。むしろ、宿題すらほうっておくほどのワルガキで、我が道を行くという感じでしたから、昔からの友人は今の私を見て、相当に辛い思いをしているのではないかと思ってくれているようです。私がくよくよ悩むなどと、ましてや私が死にたいと口にするなどというのは昔からの友人では到底思いもつかないことであり、私はやはりにこやかに笑っているのがふさわしいのだ・・・と。今の私を見て、細かいことにまでしんどくなり、いつも何かに追われているように焦る自分を見て、友人たちは心配とともに優しい言葉をかけてくれて、それに涙します。

三つ児の魂百までで、本質は変わらない、それも言えることですが、それでもその上に乗っている心境は大きく変化しています。細かいことは気にせず突っ走り、笑いながら色々なことをやり、コミュニケーションを密に取る。それが私の本質であると言われるのに、私の今の状況は細かいことを気にしていて、この本質を活かすことができません。おかげで、いやな方の本質が、目立ちたがり屋であるという本質だけが見えてしまい、余計に嫌な人間にみえてしまう…。

突っ走っていくことと目立ちたがり屋であることがうまく相乗して、コミュニケーションをしながら何かに熱中できる人間です。その突っ走っていくことが抑制されてしまっているならば、バランスは崩れ、ただの鼻持ちならない人間になる、それが今の自分です。

そんな私を見て、それを単に嫌がるのではなく、そこにいたるまでの過程を考えて声をかけてくれる、そんな友人たちがいることを幸せだと感じますし、また、そんな友人たちと会うことが今の私の帰省の意義なのだと思います。

帰省は、ただ帰るということではなく、自分自身の根を見つめ直す事の出来る機会なのだと思います。多くの友人が、私のことを心配してくれていて、そんな中で、お前はもう十分大変なのだからと言われて、それでもまだ背負いこんでいる自分がいます。自分から助けてといえる状況は難しい。だから、誰かに助けて欲しいと思うのです。でも、重き荷も坂も、他人には何一つ見えはしない。それを少しでも感じてくれる友人が、荷を持てる状況になくても、その状況にふさわしい言葉をかけてくれる友人が、帰省の折に多くいることに、本当に感謝しています。

中島みゆきさんがしたように、私も今回の帰省のおみやげ言葉、を書いておきます。私が帰省の折にあった友人、会いたかったけど会えなかった友人に、伝わってくれればと思います。
「気にかけてくれて、温かく声をかけてくれて、ありがとう。」

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