2014年11月24日月曜日

年賀状・手紙エッセイに連なるrootの言葉

先日、知人が声をかけてくれた手紙に関するエッセイに参加しました。その他のエッセイ等もあり多忙ではありましたが、自費出版ながら良い仕上がりだったと嬉しくなりました。一方、この時期はやはり年賀状を書いている時期です。そんな中、帰省して読んだ漫画に、今に至るまでの自分の根があると気づきました。女性向けの漫画ではありますが、暇を持て余した自分が、家中の本という本を読みあさり、その中で出会った言葉です。

「きみは筆まめで文書書きの私より折にふれて便りをくれたよな」
「きみの太い荒っぽい字が好きだった」
「毎日スクープ狙って汲々としていた私の心をなごませてくれたもんだ」
「だから印刷になったハガキを見た時私だって寂しかったよ」
「恥ずかしながら泣いてしまってね」
「驚いたよ自分でも なにかが切れたんだなあ あのとき」
「みんなどこへいくんだと オレはどこへいくんだと……」
「涙を止めようにもあとからあとから出てくるじゃないか」
(「ギャルボーイ」第127話"LIFE"より引用)

私は、今の自身を筆まめということはできません。同年代の人よりはおそらくかなり多くの手紙を書いているけれども、それでも私は、自身を筆まめとは言えません。折りにふれて手紙を書くといえど、そのありがたい縁は私一人が手紙を書くのには少し多く、正直に言えばおろそかになってしまうことがあります。だから、年に一度、年賀状だけはせめて、と感じるのです。年賀状以外は出さない人もいるし、勿論何度も出す人もいるけれど、それは決して「筆まめ」とはいえないことだと思うのです。

それでも、私の手紙が印刷になったら、寂しがってくれる人がいるのではないか、と感じるのです。決して綺麗な字ではないけれども、なごませる内容じゃないかもしれないけれども、それでも、印刷にしてしまうよりずっと、相手に届いてくれるのではないかと思うのです。

印刷だけの年賀状も、沢山に送る同報の年賀メールやSNSでの言葉も、私には正直"虚礼"にしか見えません。一応挨拶しておかないといけないからしておくという"虚礼"であり、虚礼廃止の声に従って廃れても構わないものだと感じます。そこにあるコミュニケーションは、1対1のコミュニケーションではなく、1対多の、自分とそれ以外その他大勢とのコミュニケーションです。こんな虚礼は、「私にとって貴方はその他大勢の一人でしかありません」と告げているとさえ取られてもおかしくない、と考えます。

年賀状を印刷することも多数あったけど、手書きの一言を添えなかったことはただの一度もありません。沢山の手紙を書いているけれど、量産品として書いたことはただの一度もありません。書く相手への、オンリーワンです。そこにあるコミュニケーションは1対1のコミュニケーションです。

手軽な年賀の挨拶が流行ってる。その挨拶さえしないことすら多くなってきている。でも、私は、その流行りに乗りたいとはどうしても思えません。印刷になったハガキを見て泣いた「ギャルボーイ」のお父さんと違い、もう泣き慣れた私は、悪い意味で強くなってしまったようです。そんな風になってほしくない友人たちに、私は、1対1のコミュニケーションである、手紙を書き続けたいと思います。

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