過去は変えられない、ということをシドニィ=シェルダンは「過去は岩である」と表現しました。岩のように固まってしまった過去は、忘れたり薄らいだりすることはあれど、事実としては厳然と残るのです。
癖のある性格、敵ができてばかりの性格を続けてきている私ですが、過去はな おいっそう癖が強く、敵ばかりになるような性格・所業でした。「お前いつか殺されるぞ」とさえ表現されるような、四面楚歌を招くような性格であったと記憶 しています。そして、同時に、今の自分しか知らない人から見ればおよそ想像もつかないほどに「悪いこと」も多くやっていました。今でこそ味方もいますが、 当時は本当に全て敵でしかなかったのではないかと思います。
三つ子の魂百までという諺どおり、私の今の性格にも当時の部分が残っていま す。それが結局自分の性格の癖となっており、それゆえに嫌われる事もあると思います。もちろん、自分でも悪いと感じている部分は直すように努めていますか ら、結果として嫌われやすい性格のうち、残していても良いと思える部分だけを残して今に至っています。言い換えれば、私の性格には嫌われることになる部分 が確信出来るほどに残っていて、これを捨てない限りは私は万人に好かれるのは無理だろうと考えています。"皆が仲の良い友好的関係であるべき"と言う主張 をする人も何人か見てきていますが、私には遠すぎる理想論でしかなく、現実として私のような性格の人間がいる以上は実現できないだろうと思います。譲れな い自分自身を嫌う人がいる以上、互いに相容れないのは当然だからです。
そんなひどい性格の私でも、愛してくれる人がいるということは大変に幸運な ことです。そして、その少なからぬ人々の中には、私と言う人間の過去のことを知っていて、それでも私の味方でいてくれるという人も多くいます。そのことに 感謝するとともに、自身の岩の過去は変えられずとも、粘土である未来はその人たちを裏切らないものとして形作らねばならないと肝に銘じています。
一方で、岩の過去を知るがゆえに私を嫌う人や、岩の過去を持ち出して私を非 難する人もいます。もちろんそれは柵という名の障害となるわけですが、自分の過去の事実である以上、受け入れざるを得ない、避けられない障害です。そんな 障害ゆえに進路を阻まれることも少なからずあります。自身がそれを体験する度に、過去ゆえの障害を作ってしまわないようにしなければならないと思います。 ですが、そんな思いはあれど、自分自身が柵を克服できないこともありますし、過去ゆえにどうしても避けてしまう物事や人があるというのが現実です。
翻って見れば、過去を知ってそれを反映してしまうと言うのは、マスコミなど の状況にも言えるようです。また、先日ふとみた書評は「何気ない同僚が、かつて凶悪犯罪を起こして少年院に入っていた人だったと知ったら、貴方はどうする か」というもので、過去を気にするかどうかを問うていると感じました。過ぎ去りしもののために柵が増え、それゆえに通る道が阻まれているというのは、私の ような一般人でさえも感じるところですが、色々な意味で"有名"な人にはなおいっそう多いのだろうと思います。受け手として、過去故の悪い判断に惑わされ ないようにしなければならないし、岩の過去にとらわれてはならないと思います。
正直に言えば、自身が直接過去を知る人や事物に対して、過去から受ける柵を なくすのは困難です。その困難を克服するより前に、自身が直接は過去を知らない人や事物について、たとえ過去を知ろうとも、その積算たる現在を見て、現在 の姿を持って愛していける用でありたいと思います。同時に、それを実践してもらっている、多くの友人たちに感謝と尊敬の気持ちを忘れないようにしなけれ ば、とも思います。
温故知新。過去を大切にしながら、そこから何か新たなことを学んでいくこ と。この言葉は、学問だけでなく、多くの"人間関係"などにも言えることではないのでしょうか。岩の過去を知っても、その岩を大切にしつつ、そこから学び 取った新たな価値を見られる人間でありたいものです。
癖のある性格、敵ができてばかりの性格を続けてきている私ですが、過去はな おいっそう癖が強く、敵ばかりになるような性格・所業でした。「お前いつか殺されるぞ」とさえ表現されるような、四面楚歌を招くような性格であったと記憶 しています。そして、同時に、今の自分しか知らない人から見ればおよそ想像もつかないほどに「悪いこと」も多くやっていました。今でこそ味方もいますが、 当時は本当に全て敵でしかなかったのではないかと思います。
三つ子の魂百までという諺どおり、私の今の性格にも当時の部分が残っていま す。それが結局自分の性格の癖となっており、それゆえに嫌われる事もあると思います。もちろん、自分でも悪いと感じている部分は直すように努めていますか ら、結果として嫌われやすい性格のうち、残していても良いと思える部分だけを残して今に至っています。言い換えれば、私の性格には嫌われることになる部分 が確信出来るほどに残っていて、これを捨てない限りは私は万人に好かれるのは無理だろうと考えています。"皆が仲の良い友好的関係であるべき"と言う主張 をする人も何人か見てきていますが、私には遠すぎる理想論でしかなく、現実として私のような性格の人間がいる以上は実現できないだろうと思います。譲れな い自分自身を嫌う人がいる以上、互いに相容れないのは当然だからです。
そんなひどい性格の私でも、愛してくれる人がいるということは大変に幸運な ことです。そして、その少なからぬ人々の中には、私と言う人間の過去のことを知っていて、それでも私の味方でいてくれるという人も多くいます。そのことに 感謝するとともに、自身の岩の過去は変えられずとも、粘土である未来はその人たちを裏切らないものとして形作らねばならないと肝に銘じています。
一方で、岩の過去を知るがゆえに私を嫌う人や、岩の過去を持ち出して私を非 難する人もいます。もちろんそれは柵という名の障害となるわけですが、自分の過去の事実である以上、受け入れざるを得ない、避けられない障害です。そんな 障害ゆえに進路を阻まれることも少なからずあります。自身がそれを体験する度に、過去ゆえの障害を作ってしまわないようにしなければならないと思います。 ですが、そんな思いはあれど、自分自身が柵を克服できないこともありますし、過去ゆえにどうしても避けてしまう物事や人があるというのが現実です。
翻って見れば、過去を知ってそれを反映してしまうと言うのは、マスコミなど の状況にも言えるようです。また、先日ふとみた書評は「何気ない同僚が、かつて凶悪犯罪を起こして少年院に入っていた人だったと知ったら、貴方はどうする か」というもので、過去を気にするかどうかを問うていると感じました。過ぎ去りしもののために柵が増え、それゆえに通る道が阻まれているというのは、私の ような一般人でさえも感じるところですが、色々な意味で"有名"な人にはなおいっそう多いのだろうと思います。受け手として、過去故の悪い判断に惑わされ ないようにしなければならないし、岩の過去にとらわれてはならないと思います。
正直に言えば、自身が直接過去を知る人や事物に対して、過去から受ける柵を なくすのは困難です。その困難を克服するより前に、自身が直接は過去を知らない人や事物について、たとえ過去を知ろうとも、その積算たる現在を見て、現在 の姿を持って愛していける用でありたいと思います。同時に、それを実践してもらっている、多くの友人たちに感謝と尊敬の気持ちを忘れないようにしなけれ ば、とも思います。
温故知新。過去を大切にしながら、そこから何か新たなことを学んでいくこ と。この言葉は、学問だけでなく、多くの"人間関係"などにも言えることではないのでしょうか。岩の過去を知っても、その岩を大切にしつつ、そこから学び 取った新たな価値を見られる人間でありたいものです。
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